こんばんはー。

 

先日フルメタルジャケットの感想を書きましたが、不謹慎ながらハートマン軍曹(教官)の下品で差別に満ちた言葉に清々しい気分になった自分がおりまして、その後いろいろ考えているとちょっと迷走してきておりまして、またまたぐだぐだと考えております。

 

別にハートマン軍曹の個性に惹かれたわけではございませんし、決して差別を肯定する極悪人でもありませんので嫌いにならないでくださいね。

 

では何に爽快感を感じたのかと言うと、見る人の配慮なんか知ったこっちゃーない、差別用語?下品?それがどーした、見たくないやつは見なくていいよ、どーだコノヤローって言う作品の迫力と言うか、そうそう、映画の醍醐味ってこれだよなって、その事を思い出させてくれた感じなのです。

 

近年ハリウッド映画はポリコレに傾注しすぎて面白くなくなったとよく耳にしますし、日本のメディアでもコンプライアンス遵守、差別的な表現の自主規制など視聴者への配慮から過激な表現は影を潜め、そうした政治的な人権擁護の枠の中でどこか窮屈さを感じる発信がされていることに自分自身それが当たり前の事なのだと慣らされてしまっている事に気がつく、そんな感じでもありました。

 

先日もMrs,GREEN APPLEの新曲「コロンブス」のMVが原住民を猿に見立て馬車を引かすなど差別的な表現との批判の声があがって公開中止になるという話題もありましたが、やはり、これなんかもミセスに対して「けしからん」と思ってしまう、公開中止もやむなしと思えている自分がいるわけで、あれ?これでいいのかな?と疑問に感じるようになります。

 

当時のキューブリックならどうだったのだろう。俺が表現したいものに文句言う奴は見なくてよろしいと言ったのだろうか。


ミセスの所属会社は「歴史や背景への理解にかける表現が含まれていた」を理由に公開を中止したとの事ですが、MVを見る限りにおいては歴史や背景を理解していないと猿に馬車を引かせる表現なんて出来ないはずで,しかも既に公開されCMにも起用されているとか、製作段階で多くの人が関わっていたであろうことを考えるとあまりにも弁明としては苦しすぎはしませんか?   

 

まあ、ポリコレがこれだけ世界の常識になっている現在では商業的な立場から引っ込めなくてはいけないのも理解はするのですが、一連の炎上騒ぎの中で制作発信側が志を折る形で謝罪すれば、それを受ける側も表現者への批判が当たり前に感じてしまうわけで、これが「原住民を猿扱いしたコロンブスを表現して何が悪い?事実そう言う事を平気でやって来た過去があったじゃないか、今の世の中はそんな酷い歴史の上に成り立っているんだよ、綺麗事なんてクソ食らえ!」ってミセスが言ったら結構カッコいいと言うか、アーティストたるものそうでなくてはいかんとリスペクトもしたくなる自分もいるわけで、ああ、こうしてハリウッド映画のようにアーティストの世界も面白く無くなっていくのだろうかと残念な気持ちになったりも致します。

 

一体ポリコレって何なんでしょうね。

 

と、ここからまた深みにはまってしまうのですが、長くなるので後半に続くのであります。