もう一つ気になってた事がありまして、最後に考えたいと思います。


教育勅語を使うから批判の対象になるのだから、同じような徳目を新しく作ってそれを道徳に使えば良いのではないか?とも思ったりしたのですが、一理あるようでないような感じが致しまして、何が違うのだろうと。


それは新しく作られる物と過去に使われていた物を使うのでは重みがぜんぜん違うような気が致します。その重みが凄く大事に思えるわけです。



会津若松市に「あいづっこ宣言」と言うのがあります。

「ならぬことはならぬものです」で知られる「什の掟」を元にして会津若松市が策定した次世代の会津を担う市民の育成のための共通指針です。


会津藩は家光の異母兄弟である保科正之が藩主になって以來、その信任から幕府への忠信厚く代々その精神は受け継がれ、幕末には松平春嶽等に熱望(ゴリ押し)されて藩主松平容保が京都守護職を受け(貧乏クジ)、その中で新選組を生み出す形になります。それが故に倒幕派から会津藩は目の敵にされ、戊辰戦争で旧幕府軍の中心勢力として攻め込まれ、2600名の死者を出して敗北、廃藩の憂き目に遭います。


その後会津藩は下北の米もろくに取れない斗南に封じられ、江戸の藩士は北海道の開拓に送られ、過酷な生活を送りますがそれに屈すること無く、明治政府樹立後逆賊の汚名の不利を受けながら政府の要職に人材を出すまでに復興していきます。


そんな会津の人達の歴史を知ると正之以來受け継がれてきた「会津家訓十五箇条」や田中玄宰の設立した日新館での教育と入学前の子供達に教えられてきた「什の掟」が会津の人達の心の支えになっていたのだろうと思えます。


什の掟は言わずもがな、あいづっこ宣言でさえ時代に合わない教えでは?と言う声もネットを見ますと出てきますが、これが何の由縁もない新しく作られた道徳指針であれば「がまんをします」とは何事か!と当たり前のように多くの人達が批判をするでしょう。


しかし、あいづっこ宣言の裏に流れているのが什の掟であり、会津の不屈の精神である事を知れば、そんな歴史を持ち郷土を誇りにする会津若松の方達を尊敬ますし、逆に羨ましくも思います。



時代にそぐわないものが多少あったとて、それは些細な事で、受け継がれる精神を大事にしたい思いからは、教育勅語を国民が伝えていくことがそんなに悪い事では無いように思います。