こんにちはー。
舌の付け根に口内炎らしきものが出来たみたいで美味しくご飯が食べれまてん。寒いとビタミンか何かが不足するんですかねぇ。
あーやねこ(注:広島弁 訳 あーしんど)
さて、続きなんですが天皇制のもと形作られた日本と言う国とは何ぞや?ってお題を考えております。
断定的な書き方をしておりますが、あくまで自分の意見ですので話半分で読んでやって下さい。
祭りとは
自分は中国山地の片田舎の生まれですが、中3の時に街に引越すまで毎年祭りに参加しておりました。
年に一回秋に行われるのですが、氏神様である八幡様の氏子の地区を大人神輿と子供神輿で練り歩き(と言っても集落が点在するのでダンプカーの荷台に子供と神輿を乗せて移動)、最終的に神社に到着すると神楽が催され、男衆は酒を酌み交わし、女衆は酒と肴の準備傍らつまみ喰いしながら世間話、子供達は境内で遊び回る、そんな非日常の空間と時間が記憶に残っております。
感覚的に言えば日常的な集団の関係性が解体されて氏子と言う単位の家族に包まれている感覚です。
これは日本全国祭りが営まれていた地域では同じような経験をされていると思います。
公共性を形作るもの
地域に住む人達は色んなコミュニティを形成しています。
仕事、学校、血縁一族、檀家、趣味のグループ、気の合うご近所付き合いなどなど。
それらのコミュニティは地域の枠からはみ出した共同体もあり、人の関係性がこれのみの場合、地域全体の帰属意識は人の繋がりではなく属地的なものでしかありません。
祭りの機能は地域に住むバラバラの集合体の人達を氏子と言う集合体にまとめ上げて、その地域に住む人達の秩序を形作っています。祭りが終わり日常的な組織の関係性に戻ったとしても氏子の家族意識は残っていて地域で子供を見守り、育て上げて大人にする、大人になれば老人を皆で助けて送り出し、受け継いだ物を次の世代に引き継がせる。
秩序とは共同体の意識、暗黙の了解の範囲で行動する事で諍いのない状態を皆が維持する事であり、即ち公共性と呼べるものです。不文律のルールですね。
公共性は集団の時間的な連続性がある中で形成されますが、祭りの機能は毎年催される事によって世代で引き継がれ、氏子と言う属地的な集団の公共性を形作っています。
日本人の公共性の理念とは?
神道には教義などの強制力はありませんが、土着の信仰が神社と言う大和律令国家の社会機能によって天照大神を頂点とした神様の序列化に組み込まれ、国の決めた祭祀と言う手段によって標準化されて行きます。
律令体制の崩壊によって神社機能に権力的な強制力は無くなりますが、そもそも土着の信仰が土台になっている事、アニミズム的な信仰の親和性から神社の神聖性は否定されずに残っており、儀礼的な祭祀は存続される事になります。
存続された祭祀によって氏子と言う属地的な集合体の秩序が作られ、神様の子供と言う共通認識のもと公共性が形作られているのが日本人だと言えるのではないでしょうか。
和を大切にする、物を大切にする、穢れを忌み嫌いながらも禊によってやり直しは出来る、個の力は自然に対しては無力であると言う自覚から個人の責任は微たるものであり皆の協力のもと対処すれば良いと考える、氏子の連続性の中で育まれて来た必然性が日本人の公共性だと思うのです。
政治と公共性の乖離
日本人はこうした氏子の属地的な集合体で公共性を作って来ている一方で、属人的な組織によって生計を立てています。
会社や学校などのコミュニティは生きていく為の社会・経済基盤であり、即ち政治の世界です。
豊かな生活を手に入れる為には個人の力を身に着け、他人との競争に勝たなくては生き残れませんから、どうしても利権と言う世界に繋がって行きます。
悪しざまに言えば氏子の共同体以外の人間関係は利権で考えても別に構わない、と言う二面性を持つ事になっていると思うのです。
ここに政治がどう変わろうと自分を取り巻く環境は大して変わらないと言う政治への無関心さが生まれているように思えます。
言い換えれば氏子の属地的な所属意識に守られた安心感がある故に政治に対して無責任でいられる国民性。
即ち国家権力、国家の政治体制が変わらなくても日本と言う国は変わっていないと言う認識、世界200カ国中158番(2024年度)と言う万年ビリケツに近い日本の国政選挙の投票率の低さがそれを物語っていると思うのです。
そして祭りが消えていく
現在地域の過疎化や人口減少によって祭りが姿を消して行っております。
人口の流動化によって氏子と言う概念も希薄になっていると思います。かく言う自分がその申し子なのです。
今のご時世祭りの認識は氏子の人達が営んで氏子が楽しむものではなく純粋に誰もが楽しむ為に参加するものになって来ました。
見方によれば土着の信仰による氏子と言う地域の単位が神道の氏子と言う概念まで拡がったと見れなくもなく、日本神話的国家統一機能としての神社の役割は最終目標まで到達したとも言えそうです。
但し、任意で参加出来る祭りへの変容は属地的な公共性を作り出して来た機能を失っているのも事実で、西洋的な基本的人権思想に対する個人の権利主張に対して立場が弱くなって来ていると思うのです。
まとめ
自分のこの間の問題意識は個人の権利の主張をする人達の西洋的な基本的人権思想が日本人的な発想を否定してしまう局面もあり、それを無視して個人主義的な現憲法理念を追求する事は結果的に日本人としては幸せになれない気もしなくもなく、政治はどうあるべきなんだろう?と言うテーマでした。
司法に於いて条文規定の適用が難しく判断に迷う場合には
社会通念上その言い分は認められるのか
公共の福祉に照らしてみて妥当なのか
が判断材料になります。
政治と公共性の乖離があるとは言え、新たな政治判断をする時には国民の公共性の認識が元になるわけですから、私達が何を大事にしているのかが未来の政治を決める訳で、今の世の中何が正しいのか分かりませんが、政治で語られる個人の権利の保障に固執した利己的な意見に同調する人達によって国政が決まって行くのであれば、天皇制の神社機能によって作られた日本人の公共性は崩壊して行くのは間違い無いのでは?と思ったりします。
長くなってしまいましたが、無限の彼方に拡がった風呂敷を取り敢えず畳んではみたのです。
勘弁してください。
答えらしきものは出ておりませんが今日の所はこんな所で。
ではでは。
失礼致しました。