徳島自衛官変死事件⑪~事件の総括~ | 全曜日の考察魔~引越し版

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徳島自衛官変死事件

 

 

さて手記からの抜粋ばかりが続きましたが、触れていない部分はまだまだたくさんあります。(というか当たり前ですが、触れていない部分のほうが圧倒的に多いです)

本来なら触れるべきかと悩みつつも、あえて触れなかった部分もあります。

この事件に関心を持たれた方は、手記そのものをご覧になることをお勧めします。

 

懸賞金をかけて以降の流れと、目撃情報など

2002年11月、遺族は懸賞金300万円(総額)を設け、情報提供を呼び掛けた。

2003年2月21日、遺族は徳島県警に告訴した。徳島県警は異例の2度目の再捜査を開始した。

2003年9月2日、遺族は警察庁を訪ね、徳島県警の捜査手法の問題点を指摘し、適正な捜査などを求める要望書を提出した。

2003年11月19日、徳島県警は2度目の再捜査の結果、「第三者の関与は認められず、犯罪の嫌疑はない」と再度判断した。

2004年3月26日、徳島県警から書類送付を受けて捜査していた徳島地検は、県警の判断を踏襲し、「犯罪の嫌疑はない」として不起訴とした。

遺族によるとなぜかこの時、地検は遺族に対して、不起訴にした理由の一つとして「死因の胸部大動脈損傷は、Mさんが自ら(橋から)飛び降りた時の衝撃によるものと考えられる」と説明したという。(エアバッグが原因と言っていた徳島県警の説明を変更した形)

2004年10月8日、遺族は不起訴は不当であるとして徳島検察審査会に審査を申し立てた。

2005年4月20日、徳島検察審査会は、不起訴相当と議決した。

 

こうした流れの一方で、テレビ番組でもこの事件については---特に2004年3月ごろまでは---何度か取り上げられていた。

(テレビ朝日『スクープ21』『ニュースステーション』『スーパーモーニング』、日本テレビ『NNNドキュメント』、毎日放送(MBS)『VOICE』、朝日放送テレビ(ABC)等々)

 

総額300万円の懸賞金がかけられ、テレビでも報道される中で、いくつかの目撃情報が寄せられた。

それぞれの目撃情報については、

「懸賞広告を見た人物が遺族に直接(電話等で)寄せたものなのか」

「番組を見た視聴者がテレビ局に寄せたものなのか」

「番組制作の取材の過程で記者が拾ったものなのか」

その他、何年何月に寄せられた情報なのか等々が、今となっては判然としないものが多い。

 

判然としないながらも、当時この事件を議論しておられた諸先輩方による書き込みをまとめる形で紹介してみると、

1999年12月25日の夜、新逆瀬橋の下を覗いている若い男2人と、そのそばに立つ若い男1人を目撃

30代の女性が、「1999年12月25日の午後10時から同11時過ぎにかけて、新逆瀬橋の上に止めた2台の車(普通車と白の軽ワゴン)と、橋の下を覗き込む若い男2人、そのそばに立つ若い男1人を目撃した」と証言した。

2002年12月1日の深夜に放送された番組(NNNドキュメント02)を見て当時のことに思い当たり、証言を申し出たという。

この証言は2002年12月25日のスーパーモーニングでも取り上げられた。

 

女性によると、この目撃の前日(1999年12月24日)にクリスマスケーキの遅配があり、憂さ晴らしに25日に夜のドライブへと出かけ、その時にこの不審な車や男たちを目撃したのだという。女性は現場が気になってUターンして見に行ったりもしている。

これに対して徳島県警は、「女性の言うクリスマスケーキの遅配があったのは1997年、つまり目撃年は1997年の勘違い」と結論したが、

女性は「目撃時に乗っていた車を買ったのが1998年12月なので、警察が言うような1997年に目撃したということはありえない。目撃した当時、自分は妊娠中だったので記憶に残っている。目撃したのは1999年に間違いない」と反論した。

さらに女性によると、「クリスマスケーキ遅配の件を当時の職場の同僚に愚痴った」とのことだったが、その同僚は1999年4月に女性と同じ職場に就職し、2000年の12月よりも前に退社していた。

(つまりクリスマスケーキの遅配をその同僚に愚痴れたのは---12月に愚痴ったのだとすれば---1999年の12月だけということになる)

警察の言う1997年にもケーキの遅配はあったが、ケーキ店によると、その時の遅配は主に企業向けのものだったという。

新逆瀬橋の手前のトンネルで火花を散らしながら走る車を目撃

このトンネルは新逆瀬橋から国道55号線を北へ700~800m程行ったところにある「鉦打トンネル(かねうちとんねる)」と言われている。

目撃証言によると、火花を散らす車を運転していたのは痩身の若い男で、頭に白い布を被っていた。(体重80kg、身長178cmのMさんの風貌と違う)

この証言は2003年2月22日に新聞に掲載され、テレビでも報じられた。

これと同じと思われる証言が、2010年1月発行の未解決事件本『真犯人に告ぐ』でも紹介されている。

(以下、該当部分を抜粋)

Mさんの車はガードレールとの接触で左前タイヤが回復不能になったが、(事故現場から)再び走り出していた。

動かない左前タイヤを引きずるので、道路に跡が残る。

タイヤ痕は、裏道を通って55号へ出て遺体と車が見つかった現場の新逆瀬橋まで続いていたという。ここまで8.2キロ。無理やり走るには長すぎる距離だろう。

ここでも、極めて重要な目撃情報が遺族に寄せられていた。

「現場の橋の手前で、火花を散らした車とすれちがった。運転していたのは小柄で頭に白いタオルのようなものを巻いた男だった」

遺族はその目撃者の協力を取り付け、事件当日に目撃者が乗っていたのと同じ車種のワンボックス車を使った検証実験を2005年に行っていた。

Mさんの身長と同じ178センチの人がすれ違う車を運転すると、ワンボックス車の運転席からはその人の頭の部分が見えなかったが、160センチの人の時は頭までしっかり見えた。

つまりこの時点でMさんの車を運転していたのは、別の人間だった可能性が高い。

火花を散らしていたのは、引きずられたタイヤのむき出しになったホイールのまま走っていたからだろう。

(引用終わり)

 

上の文中、「裏道を通って55号へ出て」とあり、妹の手記にもベッタリと付いたタイヤ痕がガードレールへの衝突現場の先の「農道へと続いていた」とあるので、それはグーグルマップ的には下の2枚目の画像のピンク矢印のルートだろうと思っていたが、

過去のネットの書き込みに、当時のテレビ番組を見たと思われる方々が、

「Mさんの車は、事故現場から288号をUターンせず、民家のある大原(集落)へ出て海岸端を通りながら国道55号に出ている」

という意味のことを書いているので、ほぼ、地図上のピンク矢印のルートで間違いないとみていいのではないか、と思う。

(ピンク矢印と国道55号が合流する手前あたりの海沿いの集落が大原集落。このルートをとると、新逆瀬橋の車両放置現場までは、グーグルマップ計測では8.1kmとなる)

1999年12月下旬の夜、阿南市宝田町で、会社員の男性が、暴走族風の改造2輪に並走される白い車を目撃した

この証言は2003年3月1日に新聞に掲載され、テレビ朝日のニュースステーションの動画にも(当時は)収められていた。

目撃した男性は「当日乗っていたのは新車で、その車でビデオを借りに行って目撃した」と証言したが、徳島県警は「証言者が新車を購入したのは1998年、ビデオを借りたのは2000年、つまり1999年に目撃したというのは男性の勘違い」とした。

これに対して男性は「目撃したのは1999年に間違いない」と反論した。

この目撃証言を報じる2003年3月1日付、朝日新聞朝刊の記事は以下。

 

「改造バイクで鉄パイプの男、車追う」

阿南の自衛官変死

徳島阿南市の河原で、海上自衛官Mさん(当時33)が遺体で発見された事件で、同市内の30代の会社員が「(遺体発見前の)99年12月下旬の夜、阿南市で暴走族風の2人乗りバイクが白い乗用車を追い回し、鉄パイプのような棒で車の屋根をたたいていたのを見た」と遺族に伝えた。

Mさんの乗用車も白く、屋根にも傷があることから、遺族は関心を示している。遺体は、同市福井町の福井川に架かる国道55号の新逆瀬橋の下で発見された。会社員が目撃したのは同橋から北約20キロの市街地。

「12月25日ごろの夜、阿南市宝田町の国道55号を猛スピードで走り抜ける白い乗用車と追いかけるバイクを見た。バイクは400CCクラスで2人乗り、後部の男が長さ80センチ前後の鉄パイプのような棒を振り上げていた」と話す。

さらに、車を運転していた会社員は同国道を3キロほど追走する形になったといい、「中国料理店前でバイク後部の男が棒で車の屋根をたたいているように見えた」としている。

会社員によると、バイクはマフラーが切断された改造車で年式の古いタイプ。乗っていた男は20歳代前半で作業着のような服を着ていたという。

Mさんの妹Tさん(33)は「車の屋根に残ったきずや兄の洋服の胸に丸い痕跡があっただけに気になる」と話した。

(記事終わり)

 

上の記事中、「阿南市宝田町の国道55号を猛スピードで走り抜ける白い乗用車と追いかけるバイクを見た」とあるのだが、

地図で見る限り、阿南市宝田町には国道55号線は通ってないように見えるのだが、通っているのだろうか? よくわからないが・・・。

 

(1枚目、薄い赤で着色されている部分が宝田町。その中の〇のあたりが2枚目の風景)

新逆瀬橋の傍で車を囲んでる男女5人を目撃(目撃時刻は1999年12月25日の夜か?判然としない)

目撃者はこの時、土佐弁を聞いている。

この目撃情報については、遺族により懸賞金がかけられるかなり前---事件の翌年(2000年12月)---に県警に通報されていたが、にもかかわらず県警は「目撃証言はない」と言っていた(との情報がある)。

この目撃情報について、テレビでは2003年9月のテレビ朝日ニュースステーションで初めて報じられたという。

ちなみに、2003年11月に放送されたテレビ朝日ニュースステーションで、当時のキャスター久米氏が、「犯行は高知を根城にする暴走族による可能性が高い」と2度も述べていた、という過去の書き込みがあった。

四国電力に出勤中、福井町の脇道から国道55号を火花を散らして下っていく車を目撃

火花を散らすその車を、ワゴン車が追走していたという。

2003年11月11日に放送されたテレビ朝日ニュースステーションの「清水建宇レポート」に掲載されていた。

「夜11時にパンク音を聞いた」という証言

どこで誰がこのパンク音を聞いたのかは不明。

現在は閉鎖されているが、Mさんの妹は事件後に数年間ホームページを開設していた時期があり、そこの「警察説明の疑問点」というコーナーに掲載されていたという。

この証言に対しては阿南署からの回答があったとのことで(妹が突っ込んだ質問をしたのだろうか)、のちに捜査の主体が「徳島県警捜査一課(あるいは徳島地検)」へと移っていったことを考えると、

この「パンク音」の情報に対して「阿南署が回答をしている」ということは、事件からまだ間がない頃に得られていた証言ではないかと言われている。

1999年12月26日の朝、ガードレールへの衝突事故現場近くに住む住人が、道路にタイヤで引きずったような傷がついていたのを目撃

この情報は、2001年6月27日に遺族が徳島地検に告訴し(この時は結局、告訴状の表書きを「再捜査願い」に書き換えたが)、地検がこの事件を捜査している期間中に、地元住民から電話で遺族にもたらされた。

(その間のことが妹の手記にも書かれている。以下、そのくだりを抜粋)

そんな時、目撃者探しの看板に書いておいた番号の携帯電話が鳴りました。

その電話は目撃情報だけのために契約したものです。

「あのぉ、事故の看板見たんですけど。あんまり役に立つかどうか分らんのやけど・・・」

電話の向こうには、申し訳なさそうに喋る男性がいました。

その人は、午後9時から午前3時(1999年12月25日の午後9時~翌26日の午前3時ということ)という看板に書かれた事故発生時刻が間違っているのではないかと言うのです。

電話の主のYさん(仮名)は、いつも交通事故があった県道288号線を使って通勤しています。

事故があったその日は会社の忘年会で、現場を通ったのは午前0時ぐらいでした。

しかしその時には、事故は起きていなかったというのです。

翌朝、家の外に出ると、道路にタイヤで引きずったような傷が付いていてびっくりしたのだそうです。

そして、その跡を追い掛けていき、事故があったことを知ったと言います。

(実は)私たちは(事件)発生直後の聞き込みでYさんにも話を聞いていました。

しかしその時は、「何も覚えてない」とおっしゃっていました。

それは飲酒運転をしていたので言ってはいけないと思ったからだそうです。

しかし(電話で情報を寄せてくれた日の)その朝、出勤時に看板が立っているのを見て、私たちがまだ情報を集めていることを知り、思いきって電話をしてくれたのです。

私はすぐにYさんの話があっているかを検証してみました。

まず焼肉屋さんで忘年会があり、その後にカラオケに行った。

私が調べた時間と、Yさんの記憶の中の時間はぴったりと符合したのでした。

早速、Yさんに証言書にサインをしてもらうと、徳島地検にきちんと調べてくれるように上申書を提出しました。

(引用終わり。これは懸賞金をかける前に得られていた証言)

 

この証言で気になったのは、証言者は事故現場を1999年12月26日午前0時ごろに酒の入った状態で車で通りかかり、

「その時には事故は起きてなかった(現場にタイヤ痕はなかった、ということかと)。だから情報募集の看板に書かれた事故発生時刻---午後9時から午前3時(1999年12月25日の午後9時~翌26日の午前3時ということ)というもの---は間違っているのではないか」

と言ったとのことだが、

この男性が26日午前0時にガードレールへの衝突現場を車で通りかかり、例えばその5分後に事故が起きた場合も考えられるので、情報募集の看板に書かれた事故発生時刻---午後9時から午前3時(1999年12月25日の午後9時~翌26日の午前3時ということ)というもの---が必ずしも間違っているというわけでもないのでは、と思う。

また男性は、「26日の朝、家の外に出てみると道路にタイヤで引きずったような痕が付いておりびっくりした」と言っているので、

男性は事故現場近くの集落に居住しており、26日の午前0夜過ぎに帰宅したときには家の前の農道にタイヤ痕があったような記憶はなく(ただし男性は酒が入っていた)、

しかし次の朝に起きて家の外に出てみると、家の前の農道にタイヤを引きずりながら走ったような痕が付いており驚いた、ということではないかと思うが、

男性が26日の午前0時過ぎに帰宅したその5分後に事故車がタイヤを引きずりながら家の前の農道を通った可能性もあるので、これも必ずしも情報募集の看板に書かれた事故発生時刻---午後9時から午前3時(1999年12月25日の午後9時~翌26日の午前3時ということ)というもの---が間違っているということを意味しないのではないか、と思う。

ただし、「26日の午前0時ごろにはまだ事故は起きていなかったのではないか」という男性の指摘が仮に正しければ、他の目撃証言---例えば12月25日の午後10時~午後11時にかけて新逆瀬橋の上で不審な3人の男と2台の車を見た等の目撃情報---との整合性は一体どうなってくるのだろうか・・・という新たな問題が出てくるとは思う。

その他

これは目撃情報とは無関係ながら、1999年12月25日の午後7~8時ごろ、Mさんが最後にデート相手の女性と別れた石井町の書店駐車場について、

「1999年時点ですでに存在しており、同じ敷地内にドラッグストアがある」等の条件から、この書店は「平惣石井店」ではないかと想像していたが、

これについては、おそらく地元の方によると思われる、平惣を指すと思われる書き込みを一つ見つけたので、これだけでは平惣で確定ではないかもしれないが、

平惣の可能性は高く、当方的には勝手にこれで確定扱いにしておきたい(なにしろその他の条件が合っており、未解決事件本『真犯人に告ぐ』にざっくりと示された地図の位置とも合う)ということで、以下に画像を紹介いたします。

 

(徳島県名西郡石井町高川原字加茂野370−1。駐車場を出てすぐに県道30号線があり、左折すれば徳島市方面、右折すればMさんの実家のある川島町方面となる。)

 

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雑多な感想

長くなっているので、そろそろこのあたりで結論というか、雑多な感想を・・・。

これまで遺族の方やテレビ局による実験の結果であるとか、目撃証言であるとかを紹介してきたものの、だからその方々の言い分で間違いないんだとは思えなかった。

言うまでもなく、実験については橋の現場と条件が違う。

スタントマンによる実験で、前向きに「自然落下」した場合でもそこそこ距離が出ているのも気になった(頭部が直下から3.4mの位置に落下した)。

さしたる影響はなかったかもしれないとはいえ、新逆瀬橋の現場は下流に向かって風が吹いていたかもしれないし、頭は中州に、胴体は10cmの深さの川に浸かっていた、というのも気になった。

靴は二つとも流されず、遺体から40cmほどのところに転がっていたというから(警察の言うそれが事実かどうかは知らないが)、現場に水の動きはそうそうなかったのかもしれないが、

それでも、12月25日深夜から12月27日午前2時半まで胴体が浅い川に浸かっていた以上、遺体が多少は動いた可能性もあるのではないかと思った。

 

しかし、そういうかなりどうでもいい些細な部分を除けば、遺族やテレビ局による実験結果のほうが、警察の言うことよりも、総じて参考に値するような気はした。

徳島県警は、「Mさんの致命傷(胸部大動脈の切断)は、エアバッグが開きMさんの胸に当たった時の衝撃によって生じた」との結論を下したが、これについても気になることがあった。

Mさんのそれは、例のタカタ製のエアバッグなのだった。

妹の手記の中に、妹がタカタの東京本社に出向いてエアバッグの構造や安全性について問い合わせるシーンがある。

この時、タカタ広報は、「Mさんのような胸の損傷(肋骨と胸骨の陥没骨折とその奥の胸部大動脈切断)は、開発段階の安全実験からも考えられない」とし、さらに「(その事故は)トヨタさんに納品した後の話なので、トヨタさんから許可があれば、いつでも(実験などに)協力します」と答えたというが、

その十数年後、タカタのエアバッグについて、「エアバッグが膨らむよりも一瞬早く、ハンドルから爆散した金属片が運転手を含む車内の人間を直撃してくる」という事故が指摘されたのは、記憶に新しいところかと。

(この金属片爆散現象については、日本メーカー潰しの陰謀ではないか、という話があるのは知ってはいますが、それについては分かりようがありませんし、趣旨とも違うのでここでは触れません。)

 

 

とすると、Mさんの場合もこのエアバッグ異常破裂による胸部大動脈損傷事故だった可能性を考えてみる必要があると思うが、

この点、エアバッグ異常破裂による金属片の爆散の威力は凄まじく、車の屋根を突き抜けることもあるほどだという。

もしハンドルから爆散した金属片の一つがMさんの胸の中央に直撃したとすれば、そこには、「ピンポイントで突かれた丸い痕跡」どころではない傷がつき、金属は体を貫通するか体にめり込み、体外に大量の出血があり、

なにより、その金属片はMさんの体内か車内に残っているだろうし、仮にそれが車の屋根を突き破って車外に飛び出したとすれば、車の屋根にその穴が残っているのではないだろうか。

また、Mさんを直撃した金属片以外の金属片も車内から発見されるのが自然だと思うが、何かが屋根を突き破ったような穴があったとか、エアバッグの部品と思われる金属片が車内から発見されたという話は、妹の手記にも警察の発表にも見られない。

エアバッグ展開時の金属片の爆散による事故・・・という可能性は、Mさんの場合は、無視してよいのではないか、と思う。

 

とすると、目撃証言などからしても、やはり暴走族とか、そのたぐいの人間たちとトラブルになり、胸を強打され致命傷を受けた後で、橋の上から投げ落とされた、といったあたりが、無理のない線ではないだろうか。

手記によると、クリスマスの夜に石井町の書店の駐車場でMさんとデート相手のY子さんが別れるとき、いちど出口に向かったMさんの車が駐車場内で再び止まったので、2台ほど後についていたY子さんの車は、Mさんの車の横を通って出口から出る形となった、とある。

想像するに、Mさんはあの夜、石井町の書店で別れた後で、阿南市方面にドライブに行ったのではないだろうか。

年末で寒い夜だった。しかし、まっすぐ帰宅するのではなく、なんとなく、夜風に吹かれたい気分だったのである。

行き先は、いつもの海の見えるドライブコースであり(阿南市方面)、書店の駐車場を出てすぐの県道30号を左折して、そこに向かおうとしたのではないだろうか。

しかし、30号を左折するとおそらく2台後ろを走っている(徳島市方面へと帰宅したのであろう)Y子さんと進行方向が同じになる。

Mさん的には、Y子さんに、「あれ、まっすぐに帰らないのかな? どこに行くのかな?」と思われるのが嫌だったので、Y子さんが書店の出口を出て県道30号を左折し、しばらく経つまで、駐車場で少し待っていたのではないだろうか。

(あるいは、行き先はともかくとして、とにかくどこかにドライブに行きたくなり、どこに行くかを思案するために、駐車場内でふと車を止めたのかもしれない)

その後、駐車場を出たMさんは、県道30号を左折して徳島市方面へ、そこから南下して阿南市方面へと向かった。

理不尽なことには折れないタイプの人だったらしい。

自衛隊で一緒に教育期間を過ごした高校時代からの友人によると、

「むっちゃんはめちゃくちゃ正義感が強かったと思う。高校でも、ヤンキーみたいな奴らが『金貸せ』って言うてきても貸さんかった。『お前に貸す金ない』って言うて、殴られても渡さんかった」

夜のドライブで阿南市あたりに差し掛かった時、バイクに車の前を蛇行されるとかがあれば、ついカッとなってクラクションを鳴らしたというシーンが、あるいはあったのかもしれない。

ありきたりながら、そんな流れではないかと想像はするものの、

1.ガードレールへの衝突事故の時にハンドルを握っていたのが、本当にMさん本人だったのか

2.エアバッグが開いたのは、本当にその事故の時だったのか

3.左前輪を引きずりながら、なぜ新逆瀬橋まで走ったのか

4.ガードレールへの衝突現場から、なぜ県道288号線をUターンせずに農道に入り、海岸端の大原地区経由で国道55号に出たのか

こういったことも含めて、真相がわかりにくい。

3と4については、もしかすると、当初は事態の発覚を防ぐため、福井ダムに車ごと沈めることを考え、福井ダムを目指そうとした、

その際、事故現場から素直に県道288号線をUターンすればよかったが、左前輪の損傷のために右側に鋭角でハンドルを切るのが難しくなっており(あるいはUターンのための細かな切り返しが難しくなっており)、

やむなく、事故現場から左へ左へ(あるいは緩やかに右へと)とハンドルを切る形で、反時計回りに移動しながら福井ダムを目指した、(土地勘)

ところが、道路にあまりにもタイヤ痕が付きまくる状況では、ダムに車を沈めても事態の発覚は防ぎようがないことに気づき、

それなら、ダムは止めて橋から落ちて自殺したことにすればいいじゃないかということになり、ダムより少し南にある新逆瀬橋を目指した・・・といったところを想像したが、よくわからない。

 

(新逆瀬橋に放置されていた時の状況)

 

いずれにしても、徳島県警刑事部捜査一課による筋読み、すなわち、

「ガードレールへの衝突事故現場でエアバッグが開き、エアバッグが胸に当たった衝撃で胸部大動脈切断という致命傷を負い、1.3リットルもの内出血を起こし、急激な血圧の低下により薄れゆく意識の中で、ロックして動かない左前輪を後輪のパワーで強引に引きずり、道路に黒々としたタイヤ痕を付着させながら、事故現場から海岸端の大原地区へと続く狭く曲がりくねった農道を巧みなハンドルさばきでひらりひらりと縫うように走り抜けつつ、国道55号線に再合流し、火花を散らしながらトンネルを二つ走り抜け、トータル8.2kmを走り切ったのはまさに「気合」とでも言うべき最後の力によったのだろうか、いずれにしても、新逆瀬橋にたどり着き、橋の南側のたもとに車を乗り捨て、そこから橋の中央まで20数メートルを、足跡を残さず一足飛びで中央欄干の外側に飛び移り、欄干に手を触れることもせず(指紋なし)、欄干外側の9cmのコンクリートのスペースにつま先の部分を道路向きに着地させたかと思った次の瞬間、欄干の直下から頭が4.2m(足先なら6m)も離れた位置まで片足で大ジャンプして自殺した・・・」

という筋読みでよしとする人は、そう多くないのではないか・・・とは思う。

 

警察は、なぜこれ程までして、事実を覆い隠そうとしたのだろうか。

これについては、例えば犯人の中に警察幹部や有力政治家の息子がいたからではないか等、様々なうわさが囁かれてはいる。あり得る話だとは思う。

ただ、自分的に思ったのは、やはり最初の駐在の対応だった。

「状況的に見て事件ではないか、早く捜してくれ」という、遺族による最大級の強さでの訴えに対して、駐在は、現場写真を撮るでもなく、阿南署に手配するでもなく、「ラブホにしけこんどんやろ」と言い、「寒いから帰る」と言って帰ったのだった。

 

反発した遺族はそれでも、駐在の言うラブホの可能性もゼロではないと思い、ラブホに聞き込みをしたが本人はおらず、

「車にカギを挿しっぱなしにして、携帯も車に置いたままだ。これでラブホにしけこむのはおかしいのではないか? 捜してくれ」と再度、福井駐在所に訴えたが、駐在は、「もう時間が遅いけん」と言って、現場に来ることもなければ、阿南署に連絡することもなかった。

 

この駐在員では埒が明かないことを察した遺族は、徳島県警本部に向かい、駐在の対応も含めて事情を話し、捜索を訴えた。(12月27日午前0時を過ぎていた)

(手記を読めば、やる時は徹底的にやるという妹さんの気質が垣間見える。この時の徳島県警本部に対する(駐在の対応が酷かったということも含めた)訴えは最大級の強い語気でなされたのではないかと想像する。)

徳島県警本部自体の動きは遅くはなかった。すぐに阿南署に手配をかけ、現場に向かった阿南署員が遺体を発見したのだった。(12月27日午前2時半ごろ)

 

しかし、発見した場所が(警察的には)まず過ぎた。

最初の駐在が現場写真も撮らず、何の捜索も手配もせず、昼間の通報時に車の現物を確認もせず、家族からの切実な訴えに対しても

「ラブホにしけこんどんやろ?」

「寒いから帰る」

「時間が遅いから行かないよ」

と言った、まさにその現場の橋の下から、遺体が出てきたのだった。

 

これだけでも警察的にはまずいことだとわかるが、さらにそれが(遺族が主張していた通り)他殺体であり、さらに遺体が発見される前に、遺族が最大級の強さで駐在の対応の酷さと捜索の必要性を県警本部に訴えていた事実があったとすれば・・・

これを「殺人事件」だと認めてしまうと、最初の対応の酷さも含めて、下手をするとワイドショーものなのであり、

警察にとってさらにまずいことには、この2か月前(12月26日)には、警察対応の酷さが話題となった「桶川ストーカー殺人事件」が発生しており、また23日前(12月4日)には、これまた警察対応の酷さが話題となった「栃木リンチ殺人事件」が発覚しており、

Mさんの遺体が発見された時すでに「徳島県警首席監察官」への内示が出ていた某署の署長も含めて、徳島県警的には、是が非でもMさんの件を「殺人事件」とは認められない・・・ということだったのではないだろうか。

(結果、のちの県警捜査一課による再捜査の時のE警部の発言、「捜査官は上の出した答えに逆らえんのです」)

さらに言えば、こうした事情に、最初にこの件を担当した阿南署の捜査員の思惑も、加わっていたのかもしれない。

 

遺体の状況や、運転席側の屋根に棒で叩かれたような跡があったとなれば(これは事件後に現場を通りかかった無関係の第三者に叩かれた可能性はあるが)、普通は、暴走族あるいはそれ的な連中とのトラブルによる事件を連想するのではないだろうか。

そして当然、阿南署の担当者もそれを連想したと、そして、場所が場所だけにもしかしたら高知から遠征してきていた連中の仕業かもしれないなと、高知なら県境跨ぎの犯罪になるし、高知県警とのやり取りも面倒だ、

山あいのことで目撃証言も得られるか甚だ頼りないし、胴体が1日以上も水に浸かっていた現場から公判維持に足るような物証を見つける自信もなし、

年末年始の休みも近いし(事件2日後の12月29日に遺族が阿南署に行ってみたら、担当者は年末休暇に入っており、官舎からジャージ姿で現れたという)、犯人を上げる自信はなし、

犯人を上げられなければ未解決事件を抱えることになる、すべてが面倒くさい、できたら自殺で処理できないものかなと思案しているところへ、

上のほうから上なりの思惑で、「この件は自殺でいいんじゃないか」という言葉が下ってくれば、阿南署の担当者としても「渡りに船」といったところではなかったのだろうか。

 

遺体を司法解剖に回したのは、いちおう検視官が「司法解剖へ」と言ったことでもあるし、解剖をして、

「やることはやったうえで自殺と判断したのだ」

という、アリバイ作りのためではないかと想像する。(のちに徳島県警刑事部捜査一課が遺族からの要請にあっさり応じて、形だけ再捜査を行い、しかし「自殺という結論だけは絶対に変えない」というのと同じメンタリティ。また、検視官その人には、アリバイ作りなどの意図はなかったとも思う。解剖医の所見を曲解し、ごまかして遺族に伝えれば遺族を「自殺」の説明で丸め込めるとタカをくくっていたが、遺族には妹さんのような強烈なキャラがおり、解剖医に直接取材するなどして、あっという間に虚偽の説明をしていたことがばれてしまったのが徳島県警の誤算ではあった。結果、徳島県警は証拠のねつ造やその逆の証拠の隠蔽も含めて、嘘に嘘を重ねる悪循環に陥っていったのではないだろうか。)

出世や保身、組織防衛のために嘘をついたり見て見ぬふりをする~口を閉ざすのは古今東西、程度の差こそあれ、大抵の個人や組織に見られることで(口を閉ざさず真っ当に、筋を通して生きれば、人はだいたい7歳ぐらいまでには死ぬのではないだろうか? それでもみな結構長生きしているのは、筋を通さず、適当なところで妥協し口を閉ざして、見て見ぬふりをして生きているからではないかと)、

警察もその例外ではなく、事と次第によっては、無い証拠をでっち上げ、ある証拠を隠蔽することさえあるという、その嫌な現実が露骨に表れた事例の一つとして、そしてまた、なにかしら我々に考えるきっかけを与える事例の一つとして、この徳島自衛官変死事件は、風化させることなく語り継がれていく必要があるのではないかと思う。