事件概要
事件の発生とその背景
連合国軍占領期の1949年(昭和24年)7月15日午後9時23分(当時は夏時間のため現在の午後8時23分)に、国鉄三鷹電車区(現・JR東日本三鷹車両センター)から無人の63系電車4両を含む7両編成が暴走。三鷹駅の下り1番線に進入した後、時速60km程のスピードで車止めに激突し、そのまま車止めを突き破って脱線転覆した。
これにより、脱線転覆しながら突っ込んだ線路脇の商店街などで、男性6名(45歳、21歳、54歳、58歳、19歳、40歳)が車両の下敷となり即死。また負傷者も20名出る大惨事となった。
当時、中国では国共内戦により中国共産党の勝利が濃厚とされ、日本の国政でも日本共産党が議席を伸ばしていた。共産党員やその支持者が多かった国鉄は、共産主義化を警戒するGHQによってレッドパージの対象となり、複数の共産党員の国鉄職員が逮捕された。
捜査・裁判
捜査当局は、共産革命を狙う政治的な共同謀議による犯行だとして、国鉄労働組合(国労)の組合員の日本共産党員10人と非共産党員であった元運転士の竹内景助(当時25歳)を逮捕した。そのうち、共産党員1人についてはアリバイが成立したため、不起訴として釈放されたが、残りの共産党員9人と竹内が起訴され、さらに2人が偽証罪で起訴された公判で、竹内は幾度も発言を求め、早口で自らの主張を述べた上で泣き叫びながら単独犯行であったことを主張した。
1950年(昭和25年)東京地方裁判所(鈴木忠五裁判長)は、非共産党員の竹内の単独犯行として往来危険電車転覆致死罪(刑法127条、125条1項、126条3項、同条1項)により無期懲役の判決を下す一方、共同謀議の存在を「空中楼閣」と否定し他を無罪とした。
一審判決で竹内が死刑ではなく無期懲役とされたのは、解雇されたことへの反発があったこと、計画性がなかったことと人命を奪うという結果を想定していなかったことで情状酌量が認められることを挙げられた。竹内が犯行時間とされた時間帯に同僚と風呂に入っていたというアリバイ証言において、検察側は同僚の証言は竹内が主張する時間より遅かったとしてアリバイを崩す姿勢を見せていたが、弁護側は何故か同僚の証言を関連性なしという理由で証人要求を拒否するなど不可思議な行動を取っている。
一審で6人を死亡させたと認定された竹内への無期懲役判決に対しては、読売新聞、毎日新聞、産経新聞などのマスコミは被害者や遺族の意見などを紹介して批判した(朝日新聞は竹内への無期懲役判決に肯定的見解を示していた)。これに対し検察は、全員の有罪を求めて控訴・上告したが、竹内以外については無罪が確定した。竹内の控訴審で東京高等裁判所(谷中董裁判長)は、1951年(昭和26年)、竹内についてのみ検察側控訴を受け入れ、書面審理だけで一審の無期懲役判決を破棄し、より重い死刑判決を言い渡した。
弁護人は、無罪の主張とは別に、被告人の顔も見ぬまま死刑に変更することの非道も訴えて、最高裁判所に上告したが、最高裁では口頭弁論が開かれないまま、1955年(昭和30年)6月22日に死刑判決が確定した。ところが、これが8対7の1票差であったため物議を醸した。以後の最高裁の死刑上告審理では口頭弁論を開くことが慣例となった。
竹内は無実を訴え続け、死刑判決後も文藝春秋誌に陰謀説を訴えるなど投稿をする。東京拘置所内で脳腫瘍に伴う激しい頭痛を訴えていたが、拘置所側は拘禁症状であるとしてこれを無視し、適切な治療等を行われないまま、1967年(昭和42年)1月18日に収監先・東京拘置所で脳腫瘍のため獄死した(45歳没)。竹内の死後、国は遺族に国家賠償請求に基づき慰謝料を支払っている。再審請求については異議申立が棄却されたことに対する特別抗告は1968年に棄却される。
竹内の供述は無実、単独犯、複数犯など様々な変遷を重ね、最高裁まで7回変更となった。
2011年(平成23年)11月10日、竹内の長男が、2回目の再審請求を申し立てた[20]が、2019年(令和元年)7月31日に東京高等裁判所(後藤真理子裁判長)は再審開始を認めない決定をした[21]。弁護団はこの決定を不服として同高裁に異議を申し立てたが、2022年3月1日、同高裁に棄却され、最高裁に特別抗告した[22]。
疑問点
事件については、非常に多くの疑問点がある。当時の当該車両に取り付けられていたMC1A形マスター・コントローラーは、錠を解除しないと操作できず、錠を針金で開錠出来るのかという問題、デッドマン装置(MC1Aマスター・コントローラーは、手を放すと、ハンドルが「ニュートラル」の状態に戻ってしまうデッドマン機構があった)を、片手だけで紙紐によって固定して機能を殺したとされているが、それが可能なのかという問題、速度固定のために使われていた紙紐がコイル巻きになっていたが竹内に結べるのかという問題、事件発生当時に停電中の暗闇の中で事件現場近くを歩く竹内を目撃したとする後輩の証言の信憑性、前述の犯行時間とされた時間帯に元同僚と風呂に入っていたアリバイ、竹内自身は人員整理を受け入れて退職金を受け取ることを決め、消防署の面接を受けている事。労働運動から降りていたことなどである。
現在に至るまで、それらに関連する証拠について検証・整理した書籍が出されている。
事故車両
事故車両のうち、先頭車のモハ63019は証拠物件として東京地方検察庁から保全命令が出された。長年にわたり車籍を保持したまま三鷹電車区に鉄骨のみの車体が保管されていたが、保全命令が解除されたため1963年(昭和38年)12月に除籍(廃車)となり、解体処分された。
2両目のモハ63057は廃車となったが、西武鉄道に譲渡され、401系として再生された。他の車両は復旧された。
その他
謀略説に関わるもの
その他、中野電車区で「今夜、三鷹駅で共産党が大事故を起こす」という噂が流れていたとの証言、事故直後に三鷹駅前の広報放送で、「この事故は、共産党員が関係しているとみられます。(以下略)」との放送が流れたという証言、事故発生直後にヤクザ風の男20から30人の一団が、駅前広場に駆け出てきて、現状保存のため手際よく縄を張り「これは共産党の仕業だ」と吹聴したという証言、アメリカ軍MPのジープが素早くやって来て、事故現場周辺の人々を「ゲッタウエイ」と追い出したという証言など、いくつかの不可解な動き、特に共産党員の犯行であるかのように印象づける操作が見られたとされる。
1950年(昭和25年)東京地方裁判所の裁判長として判決を下した鈴木忠五は、後年の回想で三鷹事件についてこう語っている。
日本共産党による隠蔽や竹内犯行説に関わるもの
竹内は、再審請求補充書で「弁護士から、罪を認めても大した刑にならない、必ず近いうちに人民政府が樹立される、ひとりで罪を認めて他の共産党員を助ければ、あなたは英雄になると説得された」と主張している。
また、竹内と面会した加賀乙彦は、竹内が「おれは弱い人間なんですね。弱いから人をすぐ信用してしまう。党だって労組だって、大勢でお前を全面的に信用するといわれれば、すっかり嬉しくなって信用してしまった。(略)けっきょく、(共産)党によって死刑にされたようなもんです。」と語っていたと述べている。
兵本達吉によると、主任弁護士として本事件に関わった林百郎は、「竹内はクロだ」「もう一度、『三鷹事件』のことを考えてみた。竹内がシロだと考えると証拠と証拠の間に次々と矛盾が起る。しかし、クロだと考えるとつじつまが合うのだ」と後年述べていたという。