その4の続きです。
遺族による独自調査
阿南署は「自殺」との結論を変えず、「他殺の疑いを視野に、捜査を尽くしてほしい」という遺族の要望が容れられることはなかった。
遺族には受け入れがたい結果であり、疑問点は多々あった。
12月27日午前8時ごろ、母親が阿南署の安置室で遺体と対面したとき、Mさんの着衣は下着に至るまで脱がされ、それらの着衣は安置室のコンクリートの床の上に無造作に置かれていたが(妹によると「床に捨てられていた」)、これほどの初期から遺留品の精細な鑑定が放棄されていたのではないかと疑問を抱くには十分な光景だった。
遺族やクリスマスの日のデート相手(Y子さん)は、指紋の提出すら求められなかったが、それでいて阿南署は、「事故車両の中からはMさんの指紋しか出てこなかった」と言った(ちなみに阿南署でこの件の捜査指揮を執っていたのは刑事課のA警部補)。
デート相手のY子さんは、12月27日の午前9時ごろにA警部補から「Mさんは自殺だけど、あなたのせいじゃないから、早く忘れなさい」と言われており、同日午前9時30分ごろには海上自衛隊・徳島小松島航空基地の警務分遣隊から広島江田島基地の警務分遣隊に対して「阿南警察署から『三笠という男性が自殺したのだが、海自の広島江田島基地の1術校の所属で間違いないか?』との照会が入った」として調査依頼があり、
これらは司法解剖が終了する8~9時間前の出来事であり、(事件性の有無も何もまだわからない段階)
また、遺族は司法解剖終了の約3時間前(12月27日午後3時ごろ)に、遺体引き取り準備のために徳島大学医学部に出向いた際、そこで出迎えた阿南署の私服警官から紙袋に入ったMさんの遺留品を返却されている。
子の遺留品は司法解剖により「事件性あり」と判断された場合は重要な証拠物件となり得るもの。
これらの状況的には、阿南署がどういう経緯でか遺体を司法解剖に回す一方で、はなから自殺で処理しようとしていたことが見え隠れしていた。
(未解決事件本『真犯人に告ぐ』によると、時期は不明ながら、三笠さんの父親と妹は、事件後に県警の検視官に会いに行った。検視官は聞き取れないくらいの声で「私は検視の結果、司法解剖に回しました。それしか言えません。そのことでご理解ください」と言ったという。)
その司法解剖では、「三笠さんの死因である胸部大動脈の損傷(胸の大動脈が切れ、内部で1.3リットルの出血)は、橋から落ちる以前に、胸の狭い範囲に外力が加えられて生じたもの」との所見が出たにもかかわらず、
阿南署は遺族に対して「胸部大動脈損傷は橋から落ちた時に背中に加わった衝撃で生じたものである」と解剖結果とは違うことを説明し、自殺との見解を変えることはなかった。
遺族が事故現場から遺体発見現場にいたる道路沿いの家を一軒一軒訪れて話を聞いたところ、警察が聞き込みを行った形跡が全くなく、三笠さんの事故車両が国道55号線上に放置され通行の邪魔になっていることを福井派出所に通報した人物にさえ、警察は事情を聞いていなかった。
阿南署は「飛び降りの現場には三笠さんの足跡しかなかった」「他の人の足跡もあっただろうが、事件性がないので調べていない」と言い、事件性を視野に入れた捜査は最初からなされていなかったことが窺われた。
遺族は独自に調査を始めることにした。
調査の中心は妹で、妹によるとその時に参考にした文献の数は、
「警察関係に始まり、医学、力学、自動車工学、統計学、法律書、被害者の自叙伝に至るまで、軽く目を通したものも含めると1000冊に手が届く程」だったという。
現場撮影や測量の仕方を教えている文献を参考に、事故車両や事故現場に残された傷を狂いが少ない金属製のメジャーで計測し、傷にメジャーをあてがったまま歪みが少ない一眼レフを用いて撮影、小さな傷や打痕なども、白とびしやすいフラッシュ使用ではなく、なるべく自然光で撮影していった。
道路のカーブの角度を知るため、徳島県土木課に行って道路建設時に作られた測量地図を手に入れたりもした。
その間にも、事故現場や遺体発見現場に赴いては、近隣の住民に何か思い出したことはないかと聞き込みを続け、まだ話を聞けてない人を探し出しては、新たに話を聞いたりもした。
睡眠時間3時間程度で、仮眠をとっては片道2時間以上かかる現場へ調査に出かけるという日々が続いた。
何かあると思えば遠方へも足を運んだ。
「調査や情報収集のために夜行バスで東京へ行き、ウィークリーマンションや友人の家を転々としていました。証言を集めるため、兄の職場があった広島へは10回以上行きました。そのほか栃木、埼玉、茨城、横浜、名古屋、大阪、神戸、香川、高知、愛媛と、何かを見つけるたびに、どこへでも足を運びました」(手記より)
以下、遺族による独自調査と、そこで見えてきたものについて、妹の手記から一部を紹介してみると、
- 現場一帯に出没する暴走族
現場周辺の住民一人一人に聞き込みを行ううち、現場一帯には週末になると暴走族が出るということが分かった。
「女の子がおる家は、暴走族が出てるからって職場まで迎えに行ったりするんよ。警察にも何回も言うたけど、全然減らんのじゃ」(住民談)
事件当日にも暴走族が出ていたという住民の証言もあった。
また上の証言とは別に、事件当日に阿南市を走っていたタクシーやトラックの運転手たちが、無線で「暴走族が出ているから気をつけろ」と連絡を取り合っていた、という情報も得られた。(運送会社に勤めている知人からの情報)
妹は、遺体発見現場で毎週土曜日の午後9時~午前3時まで張り込みを行った。
(Mさんが行方不明になった1999年12月25日は土曜日だった)
車のフロントパネルに三脚を立て、そこに録画用のビデオカメラを設置し、同時間帯の暴走族や暴走車両の出没の実態を調査した。
その結果、暴走族や暴走車両が出るのは午後9時~午前零時に集中しており、午前零時を過ぎると数が少なくなり、午前2時~3時にはほとんど出なくなるということが分かった。
張り込み中にパトロール車両に遭遇するということはなかった。
妹自身も暴走車やバイクに車を囲まれたり、鉄パイプで屋根を叩かれそうになったことがあった。
阿南市での張り込みを終え、川島町の自宅へと戻る途中で、三笠さんが最後にデート相手の女性と別れた石井町の書店駐車場近くを通った時にも、何度か暴走族に遭遇した。(妹の車の前を集団でノロノロと蛇行運転)
このような場合すぐに110番したが、妹によるとパトカーが来ることはなかったという。
- デート当日の空白の190kmと、Nシステムを活用することについての警察の非協力的な態度
Mさんの車「トヨタ・チェイサー」のガソリンタンクは満タン時70リットルで、デートの前日(12月24日)に満タンにし、その後はデートまで運転することはなかった。
(満タンにした後、24日中に三笠さんは買い物に出かけているが、それは妹の車で妹と一緒に出掛けたものであり、自車は使用していない)
ところがデートの日に神戸に行き、阿南市福井で事故車として発見されたのち、修理工場でガソリンの残量を調べてみると、約15リットルしか残っていなかった(単純計算で約55リットルを消費した形)。
妹は兄のデート相手のY子さんから聞き取ったデート当日の行程をもとに、トヨタ・コロナ(1800cc)とトヨタ・チェイサー(三笠さんのと同型車)を用いて、それぞれ1回ずつ、徳島~兵庫(神戸)間を走行した時の走行距離とガソリンの消費量を調べてみた。
2度目の実験は通行量などの点でなるべく実際の走行日に条件を合わせるため、2000年12月25日クリスマスの日に実験を行った。
その結果、Y子さんの証言を前提にすれば、事件の日の走行距離は約330kmであり、消費ガソリンは約35リットルであることが分かった。
しかし実際には当日三笠さんの車は約55リットルを消費しており、計算上の数値との間に約20リットルの差異が存在していた。
(リッター9.4kmで計算すると、約190km、余計に走っていることになるという)
妹はこの間の兄の車の移動経路を調べてほしいと考え、阿南署や徳島県警に「Nシステムを用いて調べてほしい」と再三頼んだが、警察は「Nシステムを使う必要はない」として妹の要請を拒否したという。
(Nシステムついては、のちに徳島地検がこの事件を再捜査した際に、検事が県警に対してNシステムの情報開示を求めたが、県警がこれに協力しなかったという。「そう書いてあるから事実だ」ということにはならないにせよ、このあたりを愚痴る検事の言葉が、妹の手記に紹介されている。)
- 三笠さんの胸の陥没骨折と、豚のアバラを用いての実験
事件当日の三笠さんの服装は、グレーのセーター、ダークグレーのジャケット、黒のズボン、黒色ハイカットの革靴だった。
服はすべて事件の前日(クリスマスイブ)に家族から三笠さんに渡したクリスマスプレゼントで(新品)、靴はその2年前の誕生日に妹が三笠さんにプレゼントしたものだった。
それらの着衣については、12月27日の午後3時ごろ(司法解剖が終了する約3時間前)に、徳島大学医学部で阿南署の警察官から遺族に返却された。
遺体は27日の未明まで(頭は中州にあったが)胴体の部分が水深10cmの川に浸かっていたので、遺族に返された時には着衣はまだ濡れていたという。
(まさかのちにこんな展開になるとは思わなかったのだろう)母親は、その濡れた着衣を洗濯機で洗ったが、それでも落ちない痕跡が着衣には残った。
独自調査を開始した妹が着衣を調べてみると、ジャケットの襟から肩にかけて擦れたような摩擦痕があった。
また、ジャケットの胸の中心には、丸いものが当たったような直径4~5cmの痕が残っており、その下に身に着けていたグレーのセーターや下着にまで、同じ位置に同じ大きさの丸い痕が残っていた。この丸い痕は、遺体の胸に残っていた損傷ともほぼ同じ位置だった。
妹はこの丸い痕と事件との関連を疑い、痕にメジャーをあてがい、自然光のもと、一眼レフとビデオカメラで撮影した。
妹はこの衣服や遺体に残された丸い痕跡について専門家の意見を聞くべく、友人や事件被害者の遺族に「証言をしてくれる医師はいないか」と尋ねまわり、連絡先を聞いては、資料を携え、夜行バスで東京へと向かった。
何人かの法医学者、外科医、整形外科医に遺体と洋服の状況を説明し、見解を求めたところ、
「右腕にあった等間隔の線状痕は、殴られそうになった時にかばってできた防御痕かもしれない。胸の痕跡と腕の傷を見ると、凶器は柄が細く、先に丸い固まりのついた鈍器である。また、腕と胸は別々の凶器が使用された可能性がある。胸に損傷を与えた凶器としては、ゴルフクラブのドライバーやハンマー、そして安全靴のような重くて固い靴のかかとが考えられる。靴の場合は、倒れた三笠さんの胸を、上から体重をかけてかかとで踏みつければ、陥没骨折を起こす」
とのことだった。
そこで遺族は、ゴルフクラブやハンマーその他の道具を用意し、それらの道具で人体に近いといわれる豚のアバラを殴打し、どの道具によるどの程度の打撃で骨が折れるのか(三笠さんの胸の陥没骨折は5か所だった)、また、その時、着衣にはどのような痕跡が残るのかを実験した。
豚のアバラは料理にも使われるので少量なら入手しやすいが、固まりとなるとそうはいかない。
遺族は精肉市場に何度も赴き、解体時に豚のアバラの固まりを取り置きしてもらい、それを入手した。
棒に座布団を巻き付けて人間の骨格を作り、その上に豚のアバラを固定し、Mさんが着ていたのと同型の洋服を着せ、それを椅子に座らせて、
「ハンマー」
「ゴルフクラブ」
「鉛の袋(布地の袋に鉛の玉を詰めた凶器。体の表面に跡を付けずに衝撃を与えられるため、暴走族が使用しているという)」
などの凶器で、その人形の胸を殴る実験をした。
父親が人形に向かって凶器をふるい、母親が椅子を押さえつけ、妹がその様子をビデオカメラで撮影した。
骨の折れる鈍い音が響く中、目に涙しながらの実験となったが、執念でやり通した。
結果、鉛の袋だと力が分散されてしまうが、ゴルフクラブやハンマーだと簡単に肋骨は折れ、着衣に残った痕跡も、Mさんの着衣にあったそれと酷似することが分かった。
(遺族は独自調査による様々なシーンをビデオに収めていった)