今回紹介する事件は石嵜容子さん行方不明事件です。
事件の事を知らない方でも怪電話の内容「人が大勢いて帰れない」と言えばわかるかもしれません。
概要
1990年(平成2年)12月31日の大晦日、茨城県猿島郡三和町に住む中学2年の石嵜容子さん(14)が行方不明になりました。
いなくなったのは午後5:00~6:00ぐらいの間で、連れ去られた現場はわかっていませんが、容子さんが乗っていた自転車が放置されていたのが川沿いであることから、この付近で何者かに連れ去られたものと思われます。
行方不明になってから4日後の1991年1月3日、石嵜容子さんの友人宅に石嵜容子さんを名乗る女性から電話があり「家出した」と話したのだそうです。
翌1991年1月5日、自宅にも石嵜さんを名乗る人物からの電話があり、この時には「新宿に居る。人が大勢いて帰れない」、「大勢の人がいて帰れない」などと話した後、電話を切り、その後は1度も連絡はないという事です。
容子さんはクラブ活動を終えて一度自宅に帰った後、友人と一緒にスーパーで買い物をし、ガラス工場がある十字路で友人と別れたあとに帰路についたことになっています。
考察
自転車の前かごにはスーパーで買い物をした袋が残されており、中にはスナック菓子、ノート、袋ラーメンが入っていたとのことから家出の線は極めて薄いと考えられます(家出をする前に学校で使うノートや、鍋でつくるラーメンを買わないでしょう)。おそらく誘拐でしょう。
そして、北朝鮮による拉致の可能性があります。
石嵜さんが行方不明になった地域は、1980年代から行方不明者が続出している地域で、いわゆる「大町ルート」の沿線上にあたります。
また、事件とは無関係かもしれませんが、石嵜さんと思しき電話の女性が居ると言った新宿にはコリアタウンがあり「新宿百人町事件」という北朝鮮工作員の事件が起きた場所でもあります。
北朝鮮拉致には「条件拉致」があって、その条件というのが「若い女性」だったり「技術者の男性」だったり「アベック」だったりするようです。
つまりこの事件だと拉致場所として狙っていた川べりを、暗くなってから通った若い女性がたまたま石嵜さんであったため、拉致されたものと思われます。
「人が大勢いて帰れない」も「見張りの工作員」、もしくは「その場にいた他の拉致被害者」の事かもしれません。
私は、国内のアジトに軟禁されていて、北朝鮮に連れ去られる最後の時に日本国内から家族に電話させたものと思っています(つまり拉致グループも承知の上での電話)。
日本語のイントネーションなどでバレてしまう恐れも考えましたが、工作員は長期間日本に滞在しており日本語に不自由ない可能性が高いです。
もし北の拉致なら、おそらく現在も容子さんは生きているはずで、現在は46歳になっています。無事に帰ってくる事を願うばかりです。