「東北復興支援、絆ツアー」に出発 | 全農林のブログ

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さて、バスから見えた景色は何なのだろう。何か工場が取り壊されたあとの更地か、昔、まだ「国鉄」というものがあった時代のだだっ広い遊休地か。くるりと360°見渡すと「町」だと言われたそこには、鉄筋コンクリートの市役所、スーパー、市民病院・・・・。そういったものが残っているけれども、コミュニティとしての風景が消えた感じがする。この日、震災の語り部として「陸前高田市観光物産協会」の副会長で観光ガイドをされている實吉義正さんは、震災前の故郷の様子を話してくれました。

かつては、約2キロに渡る砂浜に6万本以上の松の木を有する名勝「高田松原」があり、美しく力強い景観の広田崎など陸中海岸国立公園の南の玄関口として年間140万人の観光客が訪れていたこと、日本有数の生産量を誇るワカメ・ウニ・ホヤ貝・牡蠣等磯資源の宝庫であり古くから世界有数の漁場であったこと。春は白魚漁、夏は鮎、初冬は鮭など四季様々な表情を持つ東北でも屈指の清流「気仙川」があり、また、温暖な気候を生かして農業も盛んであったこと。そして、海岸沿いの賑やかな港町には、ごく普通にレンタルビデオ屋もあり携帯ショップやコンビニ、ファミレス・・・等々2万4千人以上という人々が生活していた場所だったということを、在りし日の写真など交えながら語ってくれました。

しかし、この地震によって「気仙川」を約8kmに渡り津波が上った。1960年の「チリ沖地震の津波」や歴史書に残っている今から約1000年前の貞観地震と比べても、見たことも聞いたこともないことがおきた。文化センターもホテルも警察も・・・建物という建物は全て内部が全部ごっそり無くなり、抜け殻になってしまった。東西に走っていたJRの線路も螺旋状に曲がっている。田には水が溜まり見た目は遊休地のように見えるが、どれだけ排水しても水が抜けていかないそうだ。おそらく、液状化の影響もあるのであろうとのこと。暮らしを重ねた町から、物理的にも精神的にも全てが一気に奪われていった。實吉さんにしてもしかり、農業を継ぐと言っていた息子さんを亡くし、5千万円も掛けて買いそろえた農器具も無くし、借金だけが残った。實吉さん曰く、今、誰かに会っても「元気か?」というのも言い辛いという。話し掛ければ、身内が亡くなっているなど話さねばならず、必ず、何かしら傷跡に触れてしまうからとのこと。また、實吉さんの上司である観光課の部長さんは、震災当時、家族(ご両親と奥さん)が行方不明という状態でも捜しに行けず対策本部に詰めており、このように非常にストレスな状況に耐えていた方も少なくないという。安全とされていた市役所でさえ、4階までも津波が押し寄せ逃げ切れず、多くの職員が亡くなった。同じ4階建てでも天井高が高かった市役所別館の屋上に逃げた人達だけが助かり明暗を分けた。話しても尽きることのない悲しみが夫々の心に刻み込まれたのである。