全日本武道具空手道~巨星列伝~、今回は元修斗ウェルター級王者、現在はブラジリアン柔術パラエストラ代表の中井祐樹氏をご紹介いたします。
初期のUFC(アルティメットファイティングチャンピオンシップ)がスタートし、世界的に“ヴァーリトゥード(なんでもあり)”という言葉と共に、総合格闘技がブームとなりました。当時はまだ素手での顔面攻撃を認めるなど、過激極まりないルールで、ある意味そういった部分が人気に火を付けた感もありました。
その後オープンフィンガーグローブの着用など、競技としてのヴァーリトゥードも徐々に確立されていき、日本でも総合格闘技の大会・興行が開催されることも増えていく訳です。
国内ではいち早く総合格闘技ルールに着手していた修斗は、当時無敵を誇っていたグレイシー柔術の一族の中でも最強といわれていたヒクソン・グレイシーを招待して1995年『VALE TUDO JAPAN OPEN』を開催しますが、そこに修斗の日本人代表の1人としてエントリーしていたのが当時ウェルター級チャンピオンだった中井千選手でした。
中井選手は第2試合で、UFCにも出場していたオランダの喧嘩屋・ジェラルドゴルドー選手と対戦。
木村浩一郎選手や山本宜久選手と言った日本人がトーナメントで姿を消していく中、中井選手はゴルドーのレフェリーの視覚をついたサミング等の反則にも屈することなく、血だらけになりながらもヒールホールドで勝利。残念ながらこの試合の反則の影響で右目の視力を失う事になってしまいます。
ところが中井選手は棄権するどころか準決勝のクレイグ・ピットマン選手を腕ひしぎ十字固めで下し、いよいよヒクソン・グレイシーと決勝を争う事になりました。
両目は腫れあがりとても戦える状態ではない中井選手でしたが、闘志は枯れることなく果敢に戦いを挑みましたが、残念ながらヒクソンのスリーパーホールドで1本負けとなってしまいます。
この大会で右目の視力を失った影響もあり、総合格闘技を引退。ヒクソン戦の影響もあり、すぐにブラジリアン柔術の道を歩まれることになります。
1997年に自身の柔術道場であるパラエストラ東京を設立され、今では全国展開する程の有名な道場・ジムとなっており、プロ選手としても青木真也選手や北岡悟選手などを排出しております。
大宅壮一ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞となった『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか』の著者である増田俊也氏の『VTJ前夜の中井祐樹』もオススメの1冊です。