考えてみれば、もうかなりな昔すぎる話なはずなのですが、
昨日のことのように思い出します。
とうとう、憧れの武将であった太田資正の墓前にお参りすることができたのでした。
けれど、現地には何の案内もなく
あきらめて帰ろうとしていた時、
「あったぞ。太田って書いてあるぞ」
と地元の地主さんが追いかけてきてくれたのです。
地主さんは太田資正について語る私の話などは全く聞いてくれず、
自分たちが若かったころの花見の話をずっとしていました。
そこには、八重桜の木が何本もあってそこで彼らは毎年花見をしていたのです。
それはたぶん今の若い人がどこかに行くような
楽しいイベントだったのでしょうか。
その時も花は少し残っていました。
そこは浄瑠璃光寺という寺だったのですが、
地主さんたちのころにも大きな火事があって、
全て焼けてしまったのだと言います。
毎年毎年、花を楽しむ彼らを太田資正はどう見ていたのでしょうか。
そんな彼らが、その日は自分の墓に手を合わせるのを資正はどう思ったでしょうか。
やがて軽トラックが来て、その運転手さんが
「道灌の玄孫(やじゃご)だ」と言って、
地主さんはやっと「道灌か!」と分かった(?)ようでした。
資正が復帰を目指していたという岩槻城。
そこは道真道灌の築いた城ではないという説が有力となっていきました。
けれども本当にそうなのでしょうか。
この謎について、まだまだ考えていきたいと思っています。
そして岩槻城には帰れなかったけど、片野で天寿を全うした資正は果たして不幸と言えるのでしょうか。
今日はふと考えました。