ネフリュードフは、まだ駅でうろうろしていたのです。
「昔、あれほど自分に身近だった姉のナターリアはもう存在しておらず、
自分には無縁で不愉快な、黒い毛むくじゃらな夫の女奴隷がいるに過ぎない、
とネフリュードフは感じた。彼ははっきりそれを見抜いた」
(「復活」下 トルストイ作 藤沼貴訳 岩波文庫)
けれど、ナターリアがそんな風になってしまったのは
ナターリアのせいだけではないのです。
ナターリアは、ネフリュードフの姉なのに、
なぜ、女公爵になれなかったのか。
弟にすべてを譲ったからではないの?
社会の矛盾はナターリヤの上にもあるのに、
ネフリュードフも、さすがにそれには気づかないのです。
それに「奴隷」と思っているのはネフリュードフだけで
ナターリアは本当に安穏で豊かだし、満ち足りて幸せなのです。
それなら、それでいいではないですか。
けれども、
ナターリアも、そして全てにおいて「奴隷」にならないためには、
ネフリュードフのように、そしてトルストイ自身のように
「三等列車」を選ぶことしかないのでは?
本当は。
それが、みじめに見えたとしても。
「選ぶこと」それが、精神の力なのだから。
肉体は滅びるよ。
けれども「奴隷」を選んでも「三等列車」を選んでも
生きるということは
大変なことなのです。