(分かりづらくまとまっていませんがUPします)
(10/31 加筆しました)
資武は、道灌の甥で鎌倉円覚寺150世の叔悦禅師の兄が、
自分の曽祖父「義芳永賢」であるとはっきりと書いていますが、
実は系図資料に出てくる叔悦禅師は「道灌の弟」とするものばかりです。
それか叔悦禅師そのものを載せていないかです。
資武は「義芳永賢」「叔悦禅師」の父母の名を
聞いていたけど覚えていない(覚分明ニ無御座候事)と書いています。
ここで「太田潮田系図」を見てみましょう。
ここでも「叔悦禅師」は道灌の「弟」とされていますが
道灌の養子 「資家」(ここでは養竹院殿義方道永)の嫡子に
「備中守」がいる事が書かれています。
その父「資家」の受領名は書かれていませんので、
ここでの彼が備中守か美濃守か信濃守かは分かりません。
が、ここで道灌の弟とされている叔悦禅師と「太田資家」が兄弟だとすれば、
「備中守」は道灌の甥と考えることもできます。
(現実には弟であっても養子であれば「息子」です)
石川忠総留書の「太田備中入道永厳」とは、彼なのでしょうか。
そうだとすれば「年代記配合抄」で道灌の後継をしたという「太田六郎右衛門」は
太田資家だと考えることができます。
(そして「太田資家」は書状の残されている「太田資定」ではないのか)
太田資家は道灌の生前、図書助死後すぐに養子になったのかもしれませんが、
道灌死後一旦家督が戻った道真の養子に立てられたとみられていたのかもしれません。
そうだとすれば太田資家は太田道灌の「弟」であり「子」であり「甥」でもある(実父が道灌の弟なので)という立場です。
混同があるとしたらこの辺りなのではないでしょうか。
太田潮田系図では備中守と資頼は兄弟とされています。
「備中守」は「早世」と書いてありますが、
その子「源六」は資頼の娘と結婚しています。
そう考えると「早世」とは書かれてはいるものの、
そう早い段階の死ではないのではないのではないでしょうか。
兄潮田(太田)資忠の息子が弟太田資武に養育されていたように、
兄が死んで家督を継いだ弟が兄の子を養育するのは義務です。
正室の子でなければ跡を継げないなど、いろいろな事情があったその頃です。
それを「家督の簒奪」と捉えるのは資頼に酷すぎると思います。
少なくとも資頼の娘が「備中守」の息子「源六」に嫁いでいるのですから、
敵対関係ではなかったと考えてもよくはないでしょうか。
「太田家の家督を狙っての政略結婚」と考えられるかもしれませんが、
実の弟であればそこまでする必要はないのではないでしょうか。
家督は一旦は成人した「源六」が継いだものの跡継ぎも無く早世したので、
また資頼が継いだというシンプルな形だったのだと思いますが、どうでしょうか。
また、ここでも資頼は「備中守」の「弟」ですが
養子として家督を相続したのであれば「息子」であるともいえます。
しかし、前にも書きましたが、
道灌死後太田家の主君扇谷上杉家は傾き続けているのです。
扇谷上杉家宰であった太田家家督相続者は
困難な道を歩かざるを得なかったのです。
その姿を見て叔悦禅師はその人に「養竹院殿」と法名を授けたのです。
その人は太田永厳ではないのでしょうか。
残されている太田永厳の書状には「太田入道永厳」とあるのみで
受領名は記されていません。
資頼の「父」太田義芳永賢とは果たして誰なのか。
今後の研究が待たれます。