でも、
資武が曽祖父の実名と受領名を書いたかもしれない書状は残っていないし、
残っている資武状4通の内実に3通に「義方永賢(栄賢)」と曽祖父のことを書いているのに、
実名受領名がないということは「本当に知らなかった」という可能性も高いのです。
資武が知らないということは、父太田資正も実名受領名を知らなかったということです。
知っていたとしたら、何としてでも資武に伝えたでしょうし、
自分に直接関係のない「上田の旗」の言い伝えまで覚えている資武は、
何としても覚えたでしょう。
そんな中やはり気になるのは「太田家記」に入っている「源姓太田氏系図」です。
「源姓太田氏系図」では資武のことを「資勝」(←?)としていて、
その父資正の祖父(つまり資武の曽祖父)を「資忠」としています。
ここでの「資忠」は「図書助」ですが、道灌が最初に養子にした「図書助」の弟となっています。
けれども文明11年総州臼井で討死しています。
そして武州岩槻(←?)養竹院に葬られているとしています。
そして法名は「義方永賢」であると。
このでたらめさは何なのでしょうか。
混乱しているというより、「何かを隠そうとしている」
そんな風に感じます。
(ここは、「考える<感じる」なブログです)
資武は「(初代養子)図書助が討ち死にしたので義方永賢が次の養子になった」
とはっきり書いているのです。
この系図はもともとは太田家記とは別な資料だという北区史の解説ですが、
でたらめなのは資武のせいではないということは言っておきたいと思います。
(続く)