小田原北条の政治力はすばらしいのかもしれません。そして、不当に低く評価されていると思います。
けれど、「実力はあっても何か信じられない」という思いが関東の諸家になかったでしょうか。
「河越夜戦はなかった」という説もあります。
けれど、北条以前はずっと「旧勢力」(足利と上杉)が関東の主だったわけです。
正平4/貞和5(1349)年に足利義詮(室町2代将軍)に代わって、
足利基氏が関東公方として京都から下向してからと考えても、約200年間です。
上杉家はその関東公方を補佐するというのですが‥。
けれど、足利尊氏の生母は「上杉氏」です。
「上杉氏」が関東に下向したのは鎌倉時代とされています。
1252年宗尊親王が鎌倉幕府の将軍として京都から下向してきたときに、
ともに下向してきて「上杉」の姓を賜ったのです。(その時、上杉家臣として太田家も下向したとされる)
伊勢宗瑞が興国寺城を得た時からを「北条5代100年」と数えるならば、
上杉はその3倍の300年続いていることになりませんか。
(そういえば、初代は北条を名乗っていませんけれども‥。)
小田原北条はなぜ短命だったのでしょう。
小田原合戦の時、諸将を集めて籠城するしかなかったのはなぜだったのでしょうか。
反北条の星、太田資正が岩付城を追放されても、利根川を背にした羽生城主は反北条を貫き続けたのでした。
それはなぜだったのでしょう。この間買った本にその謎が書かれていました。