太田永厳について ② | ゆうゆうねこの感想ブログ

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(2021/3./3に書き直しました)

「はみ唐さん」は、

「受領名が明らかでない『太田資武状』の「永賢」は、道灌の養子として家督を継ぎ「河越西門之屋敷」に入ったとされます。「河越西門之屋敷」に入ったとなれば、扇谷上杉当主の近くで仕えた家宰であった可能性も出てきます。」

 
と指摘をされています。
 
この

「養子として家督を継ぎ「河越西門之屋敷」に入った」

(「家督ヲ被致与奪、河越西門之屋敷へ被相移」)

という資武状の文章は、黒田基樹氏の「江戸太田氏と岩付太田氏」の中で「証拠」として引用もされているので「信用でき」ます。

 
しかし、ここで黒田氏は「養竹院殿義芳賢公」(「梅花無尽蔵」等で、太田道灌公を「灌公」と記している例があるので、これは「永賢」を指すとみてよいはず)と書かれている資武の祖先を、なぜかあくまでも「資家」とみるのです。
 
そして、「その実名については、同史料にみえている法名が、『養竹院位牌銘』等における「信濃守資家」と一致していることに基づくものであろう」というな記述をしますが、このような書き方は、読み手の誤解を招く恐れがありませんか。
 
先に書いたように、
 
◇「信濃守」も「資家」も「太田資武状」には書かれていません。◇
 
(私の見落としでしょうか。これを読んでくださっているような方はこの部分にご興味があると思います、ぜひ「太田資武状」の原文をご確認ください)
 
普通に考えれば、発見された「太田永厳書状」とは、資武の言う自らの祖先「太田永賢」の書状なのではないのでしょうか。
 
本当であれば
◇岩付太田家の「太田永賢」が太田道灌と同じ「備中守」を名乗っていた◇
と「発見」されるべきだったのではないでしょうか。
 
太田永厳について ③に続きます。→ こちら
 
 
 
 
「養竹開基義芳永賢庵主」
(許可を得て撮影された方からお借りしました。無断転用しないでください)