岩槻城築城の謎① | ゆうゆうねこの感想ブログ

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(2/7 追記しました)

 

すっかり、横道にそれてしまいましたが、

岩槻城築城について、もうちょっと考えてみましょう。

 

カギを握っているのは

 

「自耕斎詩軸并序」の中にある 

「岩付左衛門丞顕泰」(いわつきさえもんのじょうあきやす)と、そのお父さん「金吾法諱正等」(きんごほういしょうとう)

です。

 

それまで岩槻城は「太田道真」(おおたどうしん)・「太田道灌」(おおたどうかん)が江戸城、河越城とともに築城したとされてきました。

 

ところが、今、この「岩付左衛門丞顕泰」の父「金吾法諱正等」の記述から、「成田氏が築城した」ということになってしまってきています。

 
なぜかというと、この「岩付左衛門丞顕泰」の「顕泰」という名が、同時代の忍城主「成田顕泰」と同じなので、同一人物であろうということから、その父「金吾法諱正等」が「成田正等」という人物なのだろうということなのです。「あろう」「なのだろう」と私は書きましたが、「である」「であった」と断定している専門家がいます。
 

なぜなのでしょう。

 

そのことが書かれている「自耕斎詩軸并序」という「漢詩」を読みながら、この謎について考えて行きましょう。

 

さて、「成田氏」が岩槻城を築城したとすると、大きな疑問があります。

 

◇なぜ作者は、「岩付顕泰」を分かりやすく「成田顕泰」と書かなかったのでしょうか◇

 

しかし、それを言うなら、

 

◇なぜ作者は、岩付城を築城した人物を「岩付資員」と書かなかったのでしょうか◇

 

岩付顕泰の顕泰が実名だとすると、お父さんの方も実名でなければアンバランスです。

 

鎌倉五山の塔主(えらいご僧侶です)が、そんな詩を残すでしょうか。プレバトのあの先生だったら、そんな作品を許すでしょうか。「これダメ」ってバサっと切られませんか。

 

大体、「忌み名」と呼ばれ避けられている「実名」を詩文に載せるでしょうか。

 

「岩付顕泰」「岩付正等」とは、「諸葛亮あるいは孔明」を漢詩で「白羽扇」と表現するように、詩的な表現なのではないのかと思います。どうでしょう。

 

(追記:平成25年の埼玉での講演「長尾景春と鉢形城」では、専門家は「当時の人の名前の呼び方というのは、一つではありませんでした」と実名に替えて呼ぶ「仮名」というものがあると話してくださっています。)

 

(このときその専門家はある程度の政治的・社会的地位になりますと、この仮名という名乗りから官職名に基づいた名乗りに改めます」と言いました。)

 

しかし、「岩付左衛門丞」という姓と官職名は、この詩文以外には見当たらないです。

 

それまで太田氏築城の根拠とされてきた「鎌倉大草紙」について「軍記もの」で文芸作品だから資料として認めないというのであれば、この詩文もまた文芸作品です。記録のために書かれたわけではないのです。

 

パトロンがいて、その人のために書かれた「作品」です。

 

しかし、だからと言って、この詩文が真実を述べていないと言っているわけではありません。

 

詩僧は「学者」でもあります。誰もが納得できる「真実」を表現できなければ、笑いものにされてしまうでしょう。

 

では、岩槻築城がそれまで言われていたように「太田道真・道灌」父子だったとしたら、禅僧は、なぜはっきりと「岩付道灌、その父道真」等と分かるようにしなかったのでしょうか。

 

一つは「道真・道灌」と呼ばれる呼び名が「道号」といって「法号」(=戒名)ではないこと。私たちにとって「資清・資長」は「道真・道灌」としてなじみが深いですが、その号は鎌倉五山からいただいたものではないと思います。

 

例えば(ちゃんと調べていなくて申し訳ないのですが)鎌倉五山関係からいただいた「法名」があったのではないでしょうか。

 

(たとえ、それがなかったとしても、例えばブログを書くのにハンドルネームがあるように、この詩文の中だけの法名があったとしても不思議ではありません。)

 

また、「道灌・道真」とズバリ分かるように書いてしまうと、パトロンであり、この詩の主人公であるそのときの岩槻城主(=成田かどうかわからない顕泰)は、詩文の中で目立たなくなってしまいます。それはまずいでしょう。これが文学的な表現だと思う、もう一つの大きな理由はそこです。

 

当時の岩槻城主(長らく太田資家とされてきましたが…)にとって、太田道真・道灌は偉大すぎる存在です。はっきりと書かなくても「岩付左衛門丞とその父」と書けば、誰もが「太田父子」と連想できたのではないでしょうか。この詩文以外のあらゆる資料が、岩槻城築城者を「太田氏」としています。

 

岩付を築城したのは、本当に「成田氏」なのでしょうか。