ところが、藤波の獅子舞を奉納する藤波密厳院には、川越城主だった大道寺政繁の制札が伝わっているのです。
ですから、藤波は小田原北条政権下では、川越城の管轄だったようなのです。
それに対して畔吉の獅子舞を馬に乗って見に来たのは岩槻城主「太田氏房」。
獅子舞を奉納する徳星寺には「太田氏房」の文書が残されています。
「藤波の獅子と畔吉の獅子は違うんですか」と聞くと、「獅子」の壮年は
「全然違う」と言います。
※藤波の獅子は桶川の獅子に近いとされています。
どうやらここが、同じ上尾市であっても「川越」と「岩槻」の境界と考えていいのかもしれません。
しかし、それは小田原北条が「川越城」を奪取してから後のことなのではないでしょうか。
同じ太田資家と淑悦禅師が開いた川島「養竹院」と上尾「密厳院」があるのに
道灌公の弟の淑悦禅師の人物の説明として、わざわざ距離が岩槻に近い「藤波密厳院」の方が系図に記されているということは、
小田原北条の「進出」以前は、藤波も岩付太田領(勢力圏)だったと考えてもおかしくはないと思うのです。
おかしいでしょうか。
でも、そのころの川越城は太田氏にとっての主君「扇谷上杉」の城だったのですから。
(私もやはり岩槻城築城が太田道灌であるという説は捨てきれません)
小田原北条政権下の「大道寺政繁」に注目してしまうから、「川越太田」という視方が生まれてしまったということはないでしょうか。