その後の佐野さん | ゆうゆうねこの感想ブログ

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内容は、本などの感想です~~

 

これから「家系図いいかげん」ということを書こうと思っていましたが、

その前に、面白いことを発見しました。

 

(でも面白くないかもしれないし、例によってちょっと間違えているかもしれません、すみません)(←間違いに気づいたら直しますので、気づかれた方は、よかったら教えてください)

 

それは、昔買った本で「江戸300藩殿様のその後」(中山良昭著朝日新書)に出てくる話です。この本は、大政奉還後、各大名家がどう現代まで続いたかということが書いてある本です。

 

その中に「唐沢山城」の佐野藩が出てきます。そう「城をひとつ」では、「救援」に来たはずの氏照氏邦兄弟に荒川を渡ってもらえず、どうなってしまうのかとどきどきした佐野さんのところです。しかし、佐野さんは北条とも上杉とも賢くお付き合いしていたのですね。

 

そして、佐野家は、いろいろあって佐野信吉が後を継ぎました。「信吉」の「吉」は秀吉の吉をもらったのです。次の関東の主家康とも賢く付き合い関ケ原も行き(もちろん東軍です)所領を安堵されました。

 

ところがです。ある日「藩主信吉は江戸に火災が起きたのを城から発見、早速、江戸城にお見舞いに駆けつけた」のです。しかし、まだ元気だった家康は仰天してしまいます。「江戸城を見下ろす場所に城があり、しかもそこには豊臣系の外様大名がいたのである」と。

 

ウィキペディアでは「(佐野信吉は)慶長19年(1614年)3月に江戸で火災が起きた際、自領の下野佐野から江戸に急行し消火作業に活躍するが、これが逆に無断参府として幕府に咎められた」とありますね。そして、佐野家は断絶、唐沢山城は廃城……。

 

本当だったら褒められてもいいはずのに、逆に「難癖をつけ」られて処罰されてしまう。このエピソードは、そのころの政治がどれだけ「恣意的」(勝手気まま)だったかということを物語っていると思います。

 

そして、本当だったらそんな「恣意的」な権力者に非難がいくべきなのに「出る杭は打たれる」と、悪くもない「行動した側」が非難されてしまうのです。(佐野さんに同情した人はいたかもしれませんが)そして日本人は、「お上」に弱く、卑屈に卑屈になっていってしまうのでしょう。

 

火事が起きてそれを消火しに来ただけなのに、そこに江戸幕府の危機を見て手を打つ。逆に見ればそれだけ家康の江戸幕府には隙がないのです。

 

こんな家康が、一時は江戸城も奪取した太田資正の岩付帰還を認めるはずがありません。「そんだけはやめてちょう」と秀吉にお願いしたに違いないのです。何の記録もありませんが。