三方ヶ原の戦いで、投石隊を指揮したのが小山田信茂だというのは伝説である、とも言われています。
けれども、その三方ヶ原の戦いのずっと前に、信玄によって彼は武田軍の軍事最高意思決定機関「弓矢のご談合衆」に連なることを許されています。そして、あの「武田二十四将」にも連なっています。
武田家にとって、小山田信茂は大きな存在だったといえるでしょう。若き彼は、山県昌景、高坂弾正からも目をかけられていたのだといいます。
決して、無能な人ではないのです。
そんな彼がなぜあの時、あんな「決断」をしたというのでしょう。
その答えは、信茂の兄信有の言葉に表れています。
総領であっても病気がちなため戦闘の指揮を弟に託す兄信有は、「ひたすら善政に務め、神仏への祈願を重ねて」います。
「これはただ、甲府の御屋形様と弟・信茂の戦勝を祈願するためだけではない。それより大きな願いは、郡内将士の無事と民百姓の暮らし向きである」と。
「それがしは、領民のためにこそ祈り続けている」と。
そして兄は、総領を弟に譲り、亡くなるときはこうも言います。
「われらは武田の家臣ではない」と。
そして「いついかなるときも、この領民どものことを忘れるな」と。