この本を何度も読んでいます。
「なぜこの人が主人公なのか」と思い手に取りました。(それは何年も前です)
文学的価値とかは全く分かりません。また歴史についてもある程度までしか分からない私です。
けれども、「武田にとどめを刺した裏切り者」としてだけ語られることが多いこの人の人生を、どうやったら最終章の「毅然たる死の果てに」に持っていけるというのでしょう。「そんなことができるなんて」と胸が震えました。
山元氏は、宮崎県の生まれで山梨に地縁もなさそうです。この本は、山元氏の「可能な限りの」調査・取材の上に生まれたのです。巻末の参考文献には、辞典やエッセイ類まで丁寧に掲載されています。(自分の著作は載せていません)
最初に登場するのは家康です。晩年の家康が三方ヶ原の戦いについて若い大名たちと話をしています。
「そなたらは礫衆(つぶてしゅう)の恐ろしさを知らぬであろう」と。
この礫衆(投石隊)を率いていたのが、三方ヶ原で武田軍の先鋒を任されていた若き日の小山田信茂だったのです。小山田氏は武田と婚姻して一門と思われていたものの、もともとは郡内地方を領有してきた国人領主だったのです。
ここで「礫(過去)鉄砲(未来)」と連想して、よくある長篠の戦で武田騎馬隊が鉄砲に敗れる姿をうっすら想像しました。
結局はこの本でも、礫衆も騎馬隊も鉄砲に敗れてしまうのですが、しかしそれは三段に打たれたことと高所から打たれたため(この本では)で、信玄に率いられていた小山田の礫衆は、鉄砲などに負けはしなかったのです。
それは、殺傷距離の違い(投石機で200メートル飛ぶ)ですが、家康はもう一つの理由をあげます。それは、「将士・民百姓ともども貧しいがゆえに」という理由です。
郡内は山間の厳しく貧しいへき地だといいます。その貧しさは「どんなに食いはぐれても、甲斐の郡内にだけは行くな」と言われていたほどだといいます。米はとれません。
「武田の下で戦わねば生きていけぬ。戦うかぎりは勝たねば生きていけぬ。だからこのように恐ろしいやつらが出てきたのではあるまいか」というのです。
「戦さでの手柄が生きる術だと深く信じて必死に生きていたからである。戦さなど終わってしまったこの太平の世で、お前たちにはとうていわからぬことであろう」
そしてこの本の家康は、郡内衆のために涙をうかべているのです。