国宝級の太刀を奉納した小山義政さまです。
それは、その土地を上げての盛大な式典であったのではないでしょうか。
彼がそれをやる目的は、自分の力の誇示だったのでしょうか。
そんなことは無かったでしょうか。
しかし彼は、その後わずか10年で鎌倉府から狙われ命を落としてしまいます。
そして、小山氏も滅んでしまうのです。(血筋は残りますが)
神さまは無力なのでしょうか。
それとも何か、そこに意味はあるのでしょうか。
1つ思うことは、結局自分なんだ、ということ。
よく言われることですが、自分の中に神さまはいると思うのです。
何か絶対的超越的な強力な力を持つように見える権威から人を解放するのが真の宗教なのだと思うのです。
小山義政さまもまた、そうした権威と闘った一人だったのではないでしょうか。開発領主であった太田庄の太田氏は、まさにその土地の主と言えるでしょう。独立を守らなければならない闘う理由があったと思います。
鷲宮の神さまは守っていなかったかもしれない、敗れたかもしれない、しかし…。その独立を守るため、戦ったことに何か大きな意味を感じるのです。
単なる不運ではない気がします。どうでしょうか。