禅語からも生き方を学びましょう

【随所快活 ずいしょかいかつ】

自然体の自分、ありのままの自分、そういう自分でいればいいという意味

よく、ありのままの自分でいいと聞きます

そうすると「そうか我慢しなくていいんだ」と思って

ワガママになったり、思ったことをなんでも言う

我慢を解放して「愚か者」になってしまう人もいます

我慢をしなくていいと、ありのままは別です

じゃあ、我慢というのはどういうことなのかを知らなければなりません

我慢というのは本来は仏教の言葉です

「我」の自己意識から湧き上がってきた「奢り高ぶる傲慢な心」です

我慢しない事、なんでも我慢していた事を出すことが自然体だと思ってしまうと「傲慢」を解放することになり

自分だけ良ければ、なんでも良いという傲慢な心が解放されます

そうするとどうでしょうか

なんでも思った事を言う
まわりは不快な気持ちになる

自分の好き勝手にし傷つける

これを幸せと思う心は自分だけ良ければいい
そういう傲慢さからなるのかもしれません

じゃあ、どうすればいいか
我慢ではなく「忍辱」をすること

我慢は怒り、憎しみ、恨みなどを抱えながら、何事もなかったかのようにすることです

それを解放するからおかしな事になっていく

忍辱は怒り、憎しみ、恨みを抱えながらも、それらから離れること

聡明な方だなと思う人は自然と「忍辱」をしています

その気持ちに振り回されない

その気持ちはどういう事なのかと「洞察」しています

忍辱の「忍」は言偏がつくと「認」という字になりますよね

我慢をしている人は「また我慢をさせられた」
なんでこの人は私に我慢をさせるんだろうと思う

この我慢を「また」させられた

だから、こんなに我慢しているのに、なんなんだこの人は酷い人だ!となる

忍辱をしている人は「また我慢させられた」と思っている自分に気づく

「あれ?なんでこんな気持ちになるんだろうなぁ」

「"また"ってなんで思うんだろう」

「きっとあの言葉が引っかかったんだな」

「でもあの言い方はないよな」

「バカにされたと思うけど、自分が馬鹿なわけではないな」

と自分のまわりの聡明な方だなと思う人は「認識」し、忍ぶことをしています

我慢という傲慢に振り回されているイメージすら湧きません

そうやって自分の気持ちを理解し、受け止めていくこと

それが【随所快活】に繋がります

ただ気分よくいることでもない

我慢を解放することでもない

この夢のような世界を、しっかりと現実として受け止め

自分らしく生きていくこと

随所快活というのは深い禅語です

というか禅語は全て深いのですが

随所快活を意識した生き方は善き人生に繋がります

写真は山の麓の道を散歩していた時に咲いていた花です

とても綺麗な花を咲かせていました