2月15日はは仏陀が涅槃に入られた日でした


涅槃に入られたとは命日ということです


最後の教えのひとつに自分の好きな教え【自灯明 法灯明 じとうみょう ほうとうみょう】があります。


【自らを灯火(ともしび)とし、自らを拠り所としなさい、他をたよりとしてはいけない。

法の教えを灯火とし、拠り所にしなさい。

他の教えを拠り所としてはならない。

教えのかなめは心を修めることです。】


めちゃくちゃ深い教えです


自らを灯火とするとはどういうことか


自分軸みたいなものを持ちなさいってことだろう!

と考える人が多いと思います。


自分を灯火にするということは、自分と向き合うということでもあります


自分は何者なのか

自分は何をするのか

自分は何処へ向かうのか

自分は何を大事にし

自分は何を誓いにするのか


なんだか分からないまま生きていることを、お釈迦様は自らを灯火にしているとは言わないということですね


【他を頼りとしてはいけない】


他人に任せて生きること、または物や事に任せて生きること

誰の人生を歩んでいるのか?

自分の人生です

自分自身で歩んでいくということも、自らを灯火にすることに繋がりますね

他人や物、事、教えに頼りきって、道を踏み外しても誰も助けてはくれない

そういう状態になった時は、まわりも離れていってしまう事が多いです


【法の教えを灯火とする】


法の教えは、仏陀の教えですね

法は真理だから、それを頼りにすること

それを羅針盤とし、自分が向かうべき方向が見えてきます


どこへ向かうべきか分からないまま進んでも「あれ?なんか違う」となってしまいます


【教えのかなめは心を修めることです。】


法つまり仏陀の教えばっかりに頼りきりになるなよ!と言っているわけです


暗闇を歩くのに法、他人、物、事、という灯りを照らして歩いていくと

その法が無くなったら、真っ暗になって暗闇で見えなくなり歩けません


だから、法を頼りにしてばっかりいないで「自灯明」自らを灯火にするわけです


つまり自分でちゃんと考えなさい、教えをたよりにするのは良いけど、自分で考え自分で歩んでいくということ


それには様々なことが起きた時に自分と向き合っていかなければならない


簡単に灯火になんてなれないのが、自分もそうだし

それが人というものなのかなとも思います


東日本大震災の時に妻と子供を亡くしたお父さんの話しですが


遺体も見つからず、ずっと涙が止まらず泣いていたそうです


そんなある日に夢の中に妻と子供が出てきて

「待ってる」「会いたい」

という言葉を言われたそう


それから繋がりを感じ、心にも変化があったそう


そして、ある日数キロ先で家の残骸が発見されたと聞き行ってみると、妻と子供の写真やアルバムも出てきたそうで


奇跡的な発見に「繋がり」を感じたと言います


それから、帰り道に土手を歩いていたら

なんと妻の時計が土手の土から半分出ていたそうで


奇跡的なことの連続が起きたそう


そうして立ち直っていき


その後、皆が集える場所を作ろうと、音楽の喫茶店を作ったと言います


しっかりと向き合ったからですよね


まさに「自灯明」だと自分は感じました


暗闇を自らを灯火にして、しっかり向かうべき方向へ歩いています


どんな状況でも

自らを灯火とすることが出来ると勇気を頂いたことは忘れられません