【亡くなった人を見送ることの大切さ】
命あるものは、いつか死ぬ。
若者も老人も、賢者も愚者も。
身近な人を失うのは悲しい。
しかし悲しみに沈みきってしまってはいけない。
ー仏陀ー
その悲しみは、人を深い、深い、奈落に突き落とします。
この身が引きちぎれるくらいの、そんな悲しみです。
こんな話しがあります。
仏陀の在家信者で子を亡くし。
1週間、悲しみに明け暮れて、食事も食べる気にならず、憔悴しきってしまいました。
見かねた仏陀は家に行き、こう言った。
༄熟した果実はいずれ落ちる。
生まれてきた者も、いずれ死ぬ。
生まれてきた者が死なずにすむわけがない、悲しんでばかりでは身体を壊す。
もう会えなくなってしまったんだなと、心を定めなさい。
そして悲しむのを止めなさい༄
肉親を亡くした悲しみがどれほどのものか。
その悲しみは、止められない、どうにもならないということ。
子、肉親など、大切な人を失うことがどれほど残酷なものか。
深い、深い、悲しみに沈んでしまえば浮き上がれないこと。
すべてを知っている仏陀は「沈みきってしまう前に、こっちへ戻ってきなさい」と言っているわけです。
この世の中、身の回りで起きること。
すべての物ごとの真理は良いものばかりじゃないということ。
残酷で世の中を恨みたくなるような真理もあるということ。
恨む対象さえ、ないこともある。
やり場のない気持ちもある。
「死」が訪れた時には、どんな権力者も、頭の良い人も助けることが出来ない。
神にお願いしても、仏様にお願いしても。
神仏と繋がろうと、ありのまま自由に生きようと。
普段から善い行いをしようと、悪いことは起こり、死はやってくる。
時がくれば逆らうことはできず、みんな平等に連れ去られていく。
お願いすれば避けられるなら「100%避けられるメソッド!」として、メソッド好きな人は多いので、頭の良い方が考え出しているはず。
権力者や大富豪は避けられるなら、どんなことでもするし、お金も積むでしょう。
明確にこうすれば良いという結論もあるでしょう。
でも、今のところそんなものはない。
人の死は避けられない。
その「死」を「受け入れなさい」「人はいずれ死ぬ」「俯瞰しなさい」など。
言葉にするとチンケなもので、安っぽくなる。
この真理を受け止めるというのは、本当に、本当に、物凄く「過酷」なこと。
有り得ないくらい過酷な作業。
受け入れ難い、目の前で起きた「死」を受け止めなくてはならない。
こんな地獄を生きるような作業は他にない。
それなのに、真実を受け止めて、乗り越え、想いや未来に答えを導き出さなければならない。
そうしなければ、明日はいつまでたっても見えてこない。
「もうその人には会えないんだ」と心に定めると仏陀はいう。
それは、沈み切るのを止める役割を果たす。
ブレーキとなる。
生きたものはこれから、この世界を生きていく。
幸せを取り戻すためには必要なことです。
それが、心の強さに変換されていくからです。
その悲しみは、心の柔軟さや強さになる。
刺さったトゲを、トゲで抜くような痛みはある。
けれども、トゲは抜かなければならない。
そうすることで、乗り越えた時に。
心は安らぎ、安定し。
亡くなった者と、自分の為に強く生きれるようになっていく。
悲しむのは執着だとか、煩悩だからとか。
心が揺れるのは良い悪いを判断としてるとか。
そうではないです。
だからこそ。
だからこそ。
愛することは大切なんだということ。
それが、人間として生まれてきた価値であり。
人間が健全に生きるためには「愛すること」は何も悪くはない。
仏陀はそれを知っていたということです。
「命あるものは、いつか死ぬ。若者も、老人も、賢者も、愚者も。身近な者を失うのは悲しい。しかし悲しみに沈みきってしまってはいけない」
この言葉を忘れないように。
天気のように変化する毎日ですが、その日、その時を、その自分なりに生きていく。
雨の日でも綺麗な花を咲かせている花のように。