あれは何だったろうか | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

「幸せじゃない時が不幸だというわけじゃない。人生には幸福と不幸以外のものがたくさんある」


ヘンリー・ロリンズ



幸福と不幸


何だったろうか、それは


もし、幸福を自称しようとするならば


それは可能だろう


なんやかんやそれっぽい理由をつけて誇張して呼称して幸福を自称する


可能だ


それは簡単だ


不幸についても同様だろう


不幸もまた幸福同様に簡単なものだ


むしろ不幸の方が簡単かもな


だがしかし、その言説の一切が虚しい


幸福は虚しい、不幸も虚しい


それは虚しい


実際、幸福も不幸もどちらも俺じゃない


俺じゃないものを「俺だ!」と宣うならば、虚しくなって当然だ


薄々、気づいてるんだから


それが自分ではないと


ただ、真の幸福といえるものは確かに在る


大切なのはそちら


で、世にいう幸福と不幸については厄介なものでしかない


幸福になりたいとも思わない、不幸になりたいとも思わない


何だったのだろうか?


あのやたら大袈裟に飾り立てられた全ての希望と絶望、全ての幸福と不幸


それは人間が想像で生み出した概念だ


宇宙の法則上、全ての概念は必ず二元性の形態を纏うことになる


これは不可避である、対比による差異を前提としなければ「違い」という感覚が生まれず維持もできず、またその二つは一つの一体の知覚として必ず入れ替わることによって、つまり変化し続けることによってしかその特性を現すこともできず、維持もできないからだ


何故かというとそれらは存在しないものであり、心が生み出した想念でしかないからだ、それらは一つの知覚でしかなく、知覚は心・想念・観念でしかないからだ


想念は常に二元性の次元にある、心そのものが二元的なものだからだ


相反する二つの特性が本質的に一つのものとしてあるーーそれは矛盾しているという点において確かな実体がない


人間たちが人間たちの語るところの様々な幸福を定義して生み出した


そして、残酷なことにそれがそのまま不幸というものも生み出した


そういう現象が今もフルスロトッルでこの地上を圧倒している


よくよく冷静にもなれば、非常に恐ろしい光景だ


かつて太古の昔、人々がエデンに暮らしていた頃にはそのようなものは無かっただろう


幸福と不幸は本来、私達人間のまことの姿とは異なるものだ


本来、必要なかったものだ


高い波が生まれると、その反対は低くなる


同じように一部の人々の心が自惚れに高ぶると、その働きがそのまま別の一部の人々の心を抑圧する


その高ぶりと抑圧は今や、とてつもなく強大なのだろう


多くの人がその高いところへと行きたがるものだ


行ったところで、後々それにきっかり比例した失落が待っている


おかしなことだ


奇妙なことだ


その悪魔の絆から自由な人は何処にいるだろうか


そのような人と共にありたいものなのだが


そのような人こそ、吉祥なる人であり、また本当の意味で幸福な人だからだ


そして、恐らくはそのような人だけが人間であり


それ以外は人ではない何かなのだろう


キリスト教圏では獣というキーワードが出てくる


そういうことなのだろう


今、世界は預言書の通りになってきていると一部の人々が言う


確かにそうなのかもしれないと思うところはある


そうでなかったとしても、かまわないが


ただ、このユニークな時代の最中にあって俺は常に距離を取っていたいと思う


距離を取る、というのは内なるアートマンへの避難だ


そして、人々が生きているあの世界、社会などと呼ばれる領域から個人的な範囲の領域まで


テリトリーの概念でびっしりと有刺鉄線が張り巡らされたあの恐るべきヤベー世界


あれは、もういい


かつてはその血みどろの世界で俺も自分なりの幸福や栄達を望み、大奮闘と大殺戮をやらかしたものだ


時に勝ち、時に負け


時に追い越し、時に追い抜かれ


時に殺し、時に殺され


世に蔓延る理想や希望はいつでも威圧的なものだ


もう、いい


その一切が無益だ


そして、諸々の運命については神とやらに全て任せよう


今日はいい休日だった


残りの夜はのんびりと過ごそう


あっ、残りも何も今日はずっとのんびりしてたんだった


さ、夜のコーヒーでも飲もうよ


コーヒーに合う良い歌を知っているんだ


夜じゃなくて朝の歌なんだけど


ふむ、まーいいや


幸福と不幸はどっちも虚しく、虚しいが故にその二つはまことの幸福とは異なるーーということだね


シンプルなことだ


自己の本質を忘れない人だけが幸いなる人だ