そして夜が来る | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

ブラックダリアと呼ばれる花があると、そう聞いたことがある


多分、今日の夜の空はそのブラックダリアの花弁で織りなされたプラネタリウムなのだ


だからそれがどうしたと言われれば、どうということもない


ただ、ちょっとした遊び心は楽しいものだ


世界をそのような見方で見てみるのも一興


それだけのこと


いつでも目の前に広がるこの広大な宇宙は摩訶不思議であり、神秘だ


実際、わけがわからない


それは讃えるに値する


しかし、それはあくまで真理として


人間の心理的な作用から物質的な作用まで、その一切の現象はいつでも幻のように泡ぶいては消えてゆくだけだ


何も残りはしない


一瞬でさえ、何も掴み取ってはおけない


なら、一体何をそんなに苦労するのだろう


何をそんなにムキになっているのだろう


現象を織りなすのは何か不可思議な粒子のような、波のような、何か


それは心であり、意識であり、実体のないホログラムのようでもあり


そのさざなみの中で、ほんの一時、今のこの一切が現れた


コーヒーの香りがカップソーサーの上で回転しながらレースする


開幕を告げるカウントダウンはココナッツでできたカスタネットで、カフェインが鼻腔に到達するその時に万華鏡のような無限の火花をスパークさせる


メリーゴーランドに乗って何処へ向かうわけでもなく、くるくると回っている


人々は忘れてしまったのだ


メリーゴーランドには目的地はないし、到達すべき偉大なる地点もないってことを


万物は出現と溶解を繰り返し、その理自体はどうすることもできないーーとクリシュナが語った通りその一切は電源が入るとクルクル回り、電源が落ちると止まる


何も何処にも行ってはいない、その場でクルクル回っているだけだから


メリーゴーランドは煌びやかな光とささやかなアップダウンを楽しむためのもの


そうとわかれば、重い荷物はもう必要なくなる


重い荷物とは心の中のもののこと


楽しもう、それはリーラ、遊戯と呼ばれる


木馬に運ばれ、メロディと共に起伏を織り成して


木馬に運ばれていればメリーゴーランドは何にもぶつかりはしない


木馬から降りて、頭を掻き毟りながら、ウロウロあっちこっちへとやらかすことだけが全ての障害の正体だ


木馬とは何か?


それはバクティでは神や信仰などと呼ばれ、ジニャーナではアートマンやブラフマンなどと呼ばれる


どちらにせよ、私達は既に全て、それだ


こんな話を思い出した


澤木興道老師だったか


禅の人だ


「坐禅しながら仏になろうと思うのは、例えば故郷に帰るのに"早く帰りたい早く帰りたい"と汽車に乗っていながら汽車の中でかけだしているようなもんじゃ」


そう言った


そうだろうな


そして、それは全てのことに言えるのだろうさ


ならば、もうイキがる必要もないのだな


ふぅ、


ホッとする


既に全てがエンドロールの最中だ


シャンティは平安を意味する


シャンティ


平安あれ