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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

すいません、内容が長くなってしまったのでこちらから返信させてもらいます。


読んで下さりありがとうございます。


ベルセルクが本当に好きなちぶりさんのような方にそう言ってもらえると、冥利に尽きます。


一連の考察記事は私だけの勝手な妄想話にならないように、作品内の描写やセリフ、設定なども引用して記されているので特に大きな矛盾はない解釈の考察記事になっていると思います。


しかし、いかんせん長い記事であるのと、漫画内だけに留まらず現実に照らし合わせた考察となっていますので、ベルセルクファンにおいてでさえ読む人を選ぶ内容だと思います。


なのでその点において需要があるか不安なところもあったのですが、ちぶりさんの言葉のお陰でこれからは迷わずに長い考察記事でも投稿できそうです。


ネットでは「グリフィスは悪人だからきっとこれからファルコニアの人々を地獄に突き落とすに違いない」なんて声も散見されるのですが、


個人的にはグリフィスについては前々から「決して悪人ではない」と思っていましてグリフィスの考察は長くなるので、後で恐らく記事にして書くと思います(笑)。


確かに結末予想だと先の記事に軽く記した内容の類のものはほとんど無いかもしれません。


ガッツもグリフィスのことを「国を手に入れる。そいつは通過点だ。高みを目指し、超えて何処までも飛び続ける。それが鷹、グリフィスだ」と言っていているので、やはりファルコニアはグリフィスのゴールではない。それは多くの読者も感じていたことだと思います。


ならばグリフィスはどうするつもりか?というと、個人的には魔のイデア・深淵の神を「超えてゆく」ことしか残されてないのでは?と思うんです。


「何故、深淵の神を超えてゆく"必要"があるのか?」については記事の中で理由を説明した通りですね。


グリフィスの性格と元々の夢、それらを交えて考えてみても一応納得のゆく理由づけかなと自分でも思います。


そして、これは考え過ぎかもしれませんが、天使長ボイドは12巻の蝕の場面においてフェムトの翼を「頂きより天に飛び立つ漆黒の翼」と形容してるんですよね。


その言葉をゴッドハンドとしてのフェムトの立場に置き換えて考えてみますとーーー


ゴッドハンドにとっての頂きって魔のイデア・深淵の神じゃないですか。ゴッドハンドはあくまで「御使い」であり、スランも「私達もまた神そのものではない」と言っています。


ゴッドハンドにとっての頂き、つまり頂上は魔のイデア。


そこから飛び立ち天へゆくーー魔のイデアの次元領域を超えて、天へゆくとなるとその天はまことの光、本当の天国を意味している、とも読み取れるかなーと思うんですよ。


なにせ、深淵の神は「人が造りし神ならざる神」ですから、深淵の神が在る領域はゴッドハンドが語った通り魔界・地獄の最深部なわけです。そして当然そこは天とは異なるわけじゃないですか。


ボイドが言った「天に飛び立つ漆黒の翼」その「天」という単語を霊的なニュアンスで考えると、まことの光、まことの天、つまり天の御国とも読み取れます。


ベルセルクは霊的な次元の話が当然のようにバンバン出てきますから、あの世界観の中にも必ず本当の天国と呼びうる何かがあってもなんらおかしくはないと思います。地獄があるのですからね。地獄だけだと片手落ちといいますか。


だとすると「渇望の福王」であるフェムトには深淵の神さえ超えてゆく潜在的可能性があるのかなと。ボイドの言葉をファンの妄想で深読みしまくると、そうとも言える気がするんです(笑)。


煩悩即悟りじゃないですけど、仏陀も王族時代に極限まで欲望を追求し、その追求が苦行にゆき、最終的にその追求がニルヴァーナへの布石になったわけです。


なのでグリフィスの自分の国って究極的には天の御国のことなのかなぁなんて思うんです。


天国を自分の国にするためには魔を超えて、まことの神の一部にならなければならないわけです。


でも、フェムト自体は魔の霊格。しかしフェムトはガニシュカ戦において、その背後に光を背負っている描写があって。


あの光は魔の光ではなく、そのまままことの光だったりするのかなと。


ガニシュカが見たあの光の絵の描写って例の謎の子供(恐らくガッツとキャスカの子)の光や人魚達の光と同じような感じのトーンで描かれてるんですよ。フェムトが見せた光なのに。





(大体おんなじような描かれ方だと個人的には思います)



そしてゴッドハンドの通名?みたいな名前が作中で「魔名」と呼ばれていて、人魚や妖精達の秘密の名前が「真名」と呼ばれています。


読みはどちらも「マナ」ですが、意味が魔と真(まこと)であるように全く異なります。ゴッドハンド=魔の存在とは対象的な存在であることを意味してるわけですよね。


その「真名」を持つ妖精や人魚達は文字の通りまことの側、まことの光、天の波動側の存在なのだと思います。それらの光と同じトーンがフェムトの背負う光と同様の描かれ方をしているわけです。


他にも花の妖精のチッチなど、これに似たトーンの霊的な淡い光はポチポチ出てくるんですけど、魔とは異なるものの描写として出てきてるんですね。


ただ何故か使徒のアーヴァインにも所々似たようなオーラが出ていたりします。もしかしたらグリフィスの導きによって使徒達の波動にも変化が起きているのかもしれません。ロクスが「グリフィスは我等外道の者にすら居場所を与えてくれた」と言っていて、実際にグリフィスは現世における使徒の在り方を変え始めていましたし。それに加えて元々、アーヴァインは使徒の中でも悪人とは異なる描写がありますしね。(ここら辺の使徒とその変化の考察は長くなるので今は省きます)


その光なのですが、フェムト自身は当人が語ったようにその光の「一番濃い影(闇)の中にいる」ので、そのままではフェムト自身は背後の光の一部に溶け入ることができません。フェムト自身はまこととは異なる者、魔の者ですから。


そこで重要な役割を果たすことになるはずだったのが「受肉したグリフィスの肉体はガッツとキャスカの子供が基体になっている」という設定だったのかなーと思います。グリフィスはあの赤子を「オレのうつわとなり融け合った」と自分で言ってますから。


なんか満月の夜はグリフィスはあの子供に変身しちゃうような描写もありましたし。それが特に重要なキーにならないまま物語が進むわけはありませんから。


こういった考察は完全に一ファンとしての妄想ですけどね(笑)。もし、つまらない考察でしたらすいません。


私が思うには、実はグリフィスってフェムト転生後から更にそこから受肉した時に本当はーーー


いや、この手の話はまだまだ長くなってしまうので、ここらへんにしておきます(笑)。後でできたらグリフィスの考察記事に記そうと思います。


コメントの長さは気になさらずに。先の私の記事の方が何倍も長くなってしまっていますから(笑)。


気持ち悪くなんて微塵も思いません。


その想いはフローラの言った真心というものだと思いますよ。


27巻でシールケも言ってたじゃないですか、「どうでもいいもののために人間の魂はこんなにボロボロになったりしない」と。


それと同じで人はどうでもいいものに対して思いや言葉が溢れることはありません。


その想い・言葉が敵意や悪意でない以上、私は一ミリも不快に思いません。


むしろ私はベルセルクが好きな人が身の回りにいないので、こうした会話を嬉しく思います。


欲望についても気になさらずに。


私達はベルセルクファンなのですから「自分は渇望の福王だ!」くらいにゆきましょう(笑)。


それにちぶりさんはベルセルクに対して「ただの漫画以上の何か」を直感的に感じている方だと思います。そうではありませんか?


もしそうであるなら、それはただの欲望ではないですよ。


ではそれは何なのか?


それはですね…


いいですか?




























てな感じで完璧な世界の卵ネタで締めさせてもらいます(笑)。


それでは今日はここらへんで。