小池龍之介の魔境 2 | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

小池龍之介は路上に出てしばし経過した後、性欲などの煩悩がまだ色濃く自分に残っていることを経験し、更に天からの罰として「頭がウィンウィンし続け、みぞおちに重い苦しみが残り続ける」というような状態になり、瞑想がほとんどできなくなったと語った。



そして職質を受けたりなんなりで「人間扱いされない扱い」なども経験したとのこと。



彼は根本から強く挫折したようだ。



私は彼が経験したものは「天からの罰」ではなく「悪魔の試み」であったと考えている。



彼が瞑想できなくなったのも、次のステップへ進むために必要であったことだと思う。



彼は「とても強い苦しみが吹き荒れて瞑想できるような状態ではなかった」というニュアンスから語っていたが、私はそれは逆だと考える。



「天からの罰によって外から苦しみの波動が流入してきて、それが原因で瞑想できなかった」というのが彼の見解であるが、私はそうではないと考える。



その逆で「それまでの行為主体(自我)を伴う、自我による自我のための自我の瞑想が棄て去られ始めたが故に行為としての瞑想に執着するエゴがそれを拒み、その拒絶が苦しみになっていた」のだと思う。



キリストは「外から入ってくるものが人を汚す(苦しめる)ことはなく、内から出てくるものが人を汚す(苦しめる)」という旨を語った。



私はキリストの語った言葉に賛同する。



仏陀もそれに該当する言葉を語っている。



「真理を識れないものは他者に対して怨みを結ぶ」と仏陀は語ったが、それは「自分の内から自分が生み出している苦しみをきちんと観察し、その道理を見れない者は苦しみが外から自分に入ってくると誤解する」という解釈もできるのだ。



その誤解があればこそ人は「自分は◯◯のせいで不快になった」などという思いにもなり、それがそのまま怒りなどになる。



小池龍之介の場合はその怒りが自分に向いていたのだろう。「今まで立派な瞑想者のように振舞ってきたが、実は自分はまだまだそんなレベルにはなかった」と考えて自分で自分を責め、その自分による自分への断罪こそが苦しみの一環になっていたものと思われる。



自分を「高い境地に近づきつつある瞑想者」として裁いていた秤がその真逆の裁きに反転しただけだろう。



その苦しみを「天からの罰」として解釈し、語ったのだろう。それもまた自分を特別に見せるためのエゴの策略でしかない。



彼は一連の出来事を懺悔として語り、それが反面教師になって自分の失敗が人々に役立てたら良いという旨を語った。



確かに彼の体験は反面教師として役立つと思うが、彼の見解は私は誤っていると考える。



なので私なりの感想をこれからいくつかの記事に分けて記してゆこうと思う。



因みに私は小池龍之介のことは今も好きであるし、尊敬もしている。だからこそ今回の話を知って「惜しいことだ」という気持ちがある。



彼が語ったところの「解脱失敗」の一部始終は色々と誤っているように私は感じている。



なので自分なりに「それはこうであったのではないか」ということを記してゆくつもりだ。



それもまた一つの見解に過ぎないので本当のところではどうだったのかは神にしか知ることはできない。



しかし諸々の聖典や聖者の言葉に照らし合わせて考察することはできる。そして私自身、短期間ながらホームレスの立場に身を置いて瞑想していた経験がある。心が根底からコントロール不能になり、あらゆる恐ろしい苦しみが自分の意思とは全く関係なく渦巻く地獄のような心理次元とも対峙した経験がある。つまり小池龍之介と似たような経験を通過済みである。



その点から私は語るので「こうであったのだろう」という表現を多用すると同時に「こうである」という断言も使用する。



この二つの表現についてはあまり深い意味はないものとして「あくまで真相は誰にも知れない」という前提で読んでもらえれば幸いだ。