光が強くなれば闇も等しく強くなる。
私達がすべきことは光の追求ではなく、また闇に沈み込むことでもない。
明かりと影が自然にあることが幸福だ。
欲望はきりのない性質にある。それは「もっと、もっと」という具合に過剰性を強めてゆく。
そのようにして光と闇は双方共に等しく過剰になってゆく。この過剰性が本当の闇だ。
人間は光と闇を互いに戦わせる。しかし本当はその必要はない。
必要のないことを無理にやろうとするのは私達の我欲だ。
我欲は無理なことを無理矢理に押し通そうとする。その無理の反動が悲惨な結果を生み出す。
私達が過剰性から離れ、自然な中庸を意識するならば過剰性は静まってゆく。
宇宙は自ずとバランスを取る。全てはそれに等しい反作用がある。過剰な光には過剰な闇が付随する。
ある者が我欲に任せて富むならば、その皺寄せは誰かを貧しくする。そのように全体のバランスが取られる。そしてその反動が両者をいずれ逆転させる。
個人のレベル、集合意識のレベルでそのような働きが現される。
個人の表面上の観点ならば、過剰な気分のアップは過剰な気分のダウンと一体であり、この過剰性自体が苦しみである。
もし世界に平和を望むならば、もし世界に豊かさを望むならば、個人は自分自身の過剰性を少しずつ静めてゆく必要がある。
この点に関しても無理な性急さは必要ない。一歩一歩で十分である。
私達は何も数ヶ月や数年程度の期間で成熟しなければならないわけではない。
宇宙は急いではいない。無駄に焦り、急ぐのは常に欲望だけだ。そしてその欲望が自然な変化を無理に押し留めようとして成長が阻害される。
二つのものは本来、一つだ。二つのものは本来、争ってはいない。
一つのものを二つに分断し、二つのものを互いに争わせるのは我欲だ。
この働きから退くならば過剰性は静まる。想念については勝手に流れさせておけばいい。そこに自己を同一化させないことだけが要点だ。
心が何を喚こうと、「へぇ、左様でございますか」と流せるようになれば想念の有無に掻き乱されることは抑止される。
幸福にせよ、不幸にせよ、それは心の一人ごとに過ぎないのだ。
自分の幸福、自分の不幸…どちらも自分とやらの価値と意味を示唆している。しかし実質的にはその中身は空っぽだ。それは想念に過ぎないから実体がないのだ。
心がそのような想念に実在性を与え、固執し、掴んで離そうとしないことが苦しみとなる。それは想像から生まれている。
想像を想像として見ることができたならば想像に害はない。ただ想像と現実の識別がない時、心は自身の思いを「絶対的な現実である」と盲信してしまう。
ひとたび「自分は幸福だ」と信じればそれを疑えず、「自分は不幸だ」と信じればそれも疑えない。
しかし意識内の現れは無常であるからそれらの表明は必ず覆されることになる。その変転が我欲にとって都合がよければ浮かれ、都合が悪ければ落ち込む。
我欲がなければ何事もない。我欲があれば何事も大騒動だ。
本質的にはどちらが良い悪いというものでもない。ただ私達は苦しみを望んではいない。
それ故、前者は望みにかない、後者は望みにかなわない。前者は善く、後者は悪い。
もし個人が自己をあれこれ定義することなく自然と存在するならば、その時その存在は幸福でもなく不幸でもない。
存在自体は変わらない。変わるのはマインドだけだ。そのマインドに騙されなければ現実は常に一つきりだ。
個人がそのようにあるならばその個人は徐々に悪しき働きから退いてゆくようになる。何の努力もなく自然と。
個人がそのようになるならば、それは当人および全体にそのような作用を働きかける。
自己は二のない一なるものだ。自己は光でもなく闇でもない。この自己が本当の光だ。
心が自己と共にあるならば、光と闇の過剰性は静まってゆく。
心が自分は光だ、自分は闇だ、と思いなすならば当然その個我は当人が固執する片方に留まろうとするだろう。その対極を拒絶するだろう。
エゴは自分に固執する。これが自分だ、と思いなすその自己イメージに留まろうとする。
そのようにしてエゴは光と闇のどちらか片方に留まろうとし、それを引き延ばそうとする。
そしてエゴは自分の存在感覚を強めようとして情動を過剰にしてゆく。その過剰性に伴い光と闇は過剰になってゆく。
人は光を求める。自分が勝手にイメージする光を。
その欲望が一つの心を光と闇に二分する。二分された内の片方を求め、もう片方を拒絶し否定する。
その働きが内的にも外的にも顕される。それは悪魔の働きだ。
自己は光でもなく闇でもない。自己は幸福でもなく不幸でもない。自己は二のない一なるものだ。
それは認識の主体であるとシャンカラは語る。認識の対象は自己ではない。
しかしそれ自体を自己であると錯覚した心はその自己イメージに基づいて光と闇を分断する。
我欲は自分が勝手に定義した光を求め、自分が勝手に定義した闇を拒絶する。自己イメージを維持するために。
光は快楽、闇は苦しみ。光は高揚、闇は落胆。光は解放、闇は束縛。
エゴ意識はそのアップの部分を本来の自分であると思いなし、ダウンを拒絶する。
そしてアップを求める。しかしそれは心の二つの側面の一つに過ぎない。だからアップに等しいダウンは必ず現れる。
アップダウン、アップダウン…この二つが過剰になればなるほどエゴは存在感覚が強まる。そうして自らその動揺を強めてゆく。
この「毎度毎度の同じパターン」に自我自身が気づく時が来る。
無意味な闇を抱え、無意味な光に高揚し、それぞれの落差が自分は何かを得たり、失ったり、迷ったり、学んだりしているような錯覚を与える。
残念ながらそれはただの錯覚だ。
得るものも失うものもなく、無知もなく学ぶものもない。
エゴがどれほどその一部始終をドラマチックに装飾しようとも本質的には中身などない。
エゴはそれを最も恐れる。だから最もらしい理由をつけて自分が何か実質的な存在であるかのように自分語りを独り続ける。
そこに実在性を与える限り、虚しさは不可避だ。
それが単なる作り話に過ぎないと知れば逆に虚しさはなくなり、お遊び(リーラ、遊戯)となる。
「汝の智剣はどこにある。剣を抜いて妄想を寸断せよ」
クリシュナはそう語る。
私は今、この記事を書いている。
あたかもそこには何か意味があるかのように見える。言葉がレゴブロックのように集まり、文体を形成し、何かの形や意味を成しているかのように見える。
しかし本質的には意味はない。
あなたがこの記事を読み終わり、一呼吸する瞬間、そこにはもうこの記事は存在していない。
この記事だけではない。宇宙の全てが、人生の全てがそのようなものだ。
それは恐ろしいことではない。虚しさの欠片もない。それは晴れやかなことだ。
ただエゴの欲望はある特定の対象、状態、状況に固執する。
それを引き延ばし、継続させようとする。しかしそれは宇宙の道理に反することであるから、摩擦が生まれる。
それが恐れになり、苦しみとなる。その情念が闇となり、闇が対極の光に救いを見出だそうとする。
その光をいくら追求しても何にもなりはしない。いずれはくたびれてくるだろう。
宇宙には明かりと影がある。物質的な次元でも、精神的な次元でも…全ての次元において。
明かりと影自体は宇宙の顕現に必要不可欠な要素であり、どちらも悪いものではなく良いものでもない。ただ単に必要不可欠な要素なのだ。
それはある。それが自然なことだ。明かりと影に問題はない。しかし片方が消滅することは問題だ。
それはあってはならないことであるから宇宙においては決して起き得ない。
人間は光を強めて闇を駆逐しようとする。しかしそれは実現しない。宇宙の道理は光に等しい闇を自動的に生み出す。
その闇を見て人間は問題だ!と騒ぎ、怒る。本当の問題はその欲望にある。
必要なのは光を強め闇を駆逐することではない。
必要なことはとてもシンプルだ。
「あなた方は心を騒がせてはなりません」
キリストのこの一言で十分だ。智の観点からならば、この一言に必要な全てがある。
心が不自然に騒ぐことなくあるならば光と闇は互いに争うことなく一つの平和になる。
必要なのはその平和だ。
光を大袈裟に飾り立てなければ闇もまた大袈裟に飾り立つことはない。
本当の光はマインドの中にある観念には見出だせない。
光は照らされるものではなく照らすものだ。意識内、マインド内のものは全て照らされるものだ。
認識主体は見られるものではなく見るものだ。
去来する対象は去来し続ける。しかし主体は動かない。
その主体が光である。
それ以外の全ては二元性にあり、そのこと自体には何も問題はない。
顕現には光と闇がある。それは自然な姿だ。
その二つを一つとして理解するならばその二つの中に一つのものが見える。昼と夜に同じ一つの空という空間が見られるように。
その一つが理解されるならば見るもの・見られるものという二元性もまた等しくその一つとして理解される。
自分の存在を一つのものとして了解するならばもはや自分の存在について混乱することもないだろう。
混乱がなければ混沌はない。混沌がなければ全てはシンプルだ。
そのシンプルな存在をつまらぬものであると見なす我欲だけが不要な混沌に勝手にざわめく。
そのざわめきは止滅されるべきものである、と全ての聖典と聖者は語る。
もしキリストが言った通り、私達が心を騒がせることを控えてゆくならば、光も幸福も平和も自然と顕になるだろう。
我欲の力で強制的に不自然に作られたものは皆、偽物だ。それはそれ自体が生み出す反動によって時間の中で必ず打ち消される。
仏陀はニルヴァーナを「形成されざるもの、作られざるもの」と形容した。
心は常に原因と結果に束縛される。心は常に形成されたものだ。
しかし心が何かを形成する以前に存在するものがある。形成されたものを見る存在・認識は自ずとある。それは形成されたものではない。
私達が形成されたものに実在性を与える限り、光と闇は争い続けるだろう。
しかし初めからその二つは一つであり、一つであるから争う必要がなく、またそもそも争いようもない、と知るならば光と闇はもはや問題ではなくなる。
欲望により過剰に飾り立てられた光と闇は現実の姿に反するという意味で一つの闇だ。それは偽証の産物だ。
同様に自然なバランスにある光と闇は一つの光だ。そこに偽証はなく、あるがままだ。
私達が本質的に望んでいる光はその光なのである。