心 23 ~孤独~ | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

世間一般でいう孤独というものは人間の欲望が作り出したものだ。


「誰もがポケットの中に孤独を隠し持っている」

「ひとりぼっちが恐いから半端に成長してきた」

真島昌利は昔、そんな歌詞を書いた。


誰もが心に孤独という観念を隠し持っている。そして誰もがそれを恐れ、その恐れに成長が阻害され、人間として半端に成長する。


一人で過ごすこと自体は孤独ではない。誰もが一人で過ごす時間は必要であり、それ自体は皆が愛してもいるだろう。その意味での孤独は誰も恐れてはいない。


私達が恐れる意味での孤独というものは、そこに除外や差別のニュアンスが入ったものであり、対比による優劣の惨めさがレッテルとして付随するものだ。


その意味での孤独を恐れない者は多分ほとんどいないだろう。


私達皆がその概念を心の内に持っている。私達はそれを恐れる。


実際に誰かがそのような立場にある状況を目撃したり、自分がそのような立場にある経験をした時、私達はそこに苦しみを見る。


しかしその孤独というものは人間の恐れが生み出した想像上のものに過ぎない。人間が想像し、それを人間が表現するだけだ。


人間が想像し、心の中にあるその観念を自ら恐れる。「自分はそうなりたくない」と恐れる。


そしてその恐怖、欲望に駆られて人は「自分がそうならないよう」にあらゆる手段を用いて孤独を回避する。


その時、「私は孤独ではない」という観念が孤独という観念を否定し、人は孤独への恐れと苦しみに対する自己同一化を拒絶の力に依って回避する。


私達はそこに「孤独ではない」という安心、快楽を得る。しかしこの快楽は前提に孤独という観念がなければ生まれない。


孤独という負の観念を自ら背負い、欲望の条件がクリアされた時、その重荷を降ろし、そして軽くなった落差に快を見出だすだけだ。


しかし孤独という観念自体は依然として心にあるままだ。ただモルヒネが痛みを隠すように、快楽が孤独という苦しみを隠すだけだ。


心の中に孤独という観念自体は依然としてある。それに対する恐れや不安は依然としてある。


しかし「これこれこうだから、自分は孤独ではない!」と思いなす者は、自分の心の中にある孤独という観念を自分で否定する。拒絶する。


拒絶されたその観念はどこへゆくのか。どこへもゆきはしない。当人の心の中にあり続ける。しかし当人は「自分は違う」とその自らの心にある観念を拒絶する。


拒絶されたその観念は自分以外の誰か、対象に押し付けられることになる。対象にその観念が投影されることになる。


その必要があるのだ。そうでなければ心にある孤独という観念は維持できない。孤独という観念が維持できなければ、それを否定した際に生まれる「自分は孤独ではない」という観念、快楽もまた維持できないからだ。


その孤独という観念は自分以外の何かや誰かに押し付けなければならない。そのようにして個人は心という海に生じる"自分の自己イメージに反する波"を押し退ける。


波を押し退けるならば、その作用に対する反作用として波はいずれ引いて戻ってくることになる。


その時、個人はその孤独という観念を再び自分の心の中に認識し、不安になったり、恐れたりする。そして「自分が孤独にならないよう」にその波を再び押し退ける。


それは個人の内的な戦いのようなものだ。自分で生み出した想いに自分が恐れ、それを否定するために物や他者を利用し、そして孤独という観念を拒絶する。


全ては「自分」というエゴ意識を守るためであり、何よりもエゴが快楽を得るためだ。快楽は必ず対比に依存する。快楽は前提に苦しみがなければ生まれない。


蚊に刺された痒みを掻く快感は、痒みがなければ生まれない。快楽は前提として苦しみがなければ生まれない。その苦しみをキャンセルした時の落差が快感という錯覚を生むからだ。


この心のメカニズムは全てに当てはまる。自分は幸福、自分は正義、自分は豊か、自分は富んでいる、等々。それらの観念にも当てはまる。


見ての通りそれら全てには「自分は」という主語がある。それら全ては「自分を」立派にするためにエゴが欲望で生み出した想いだ。


この「自分」が宇宙全体を意味するならばそれは理法に順応していると言えよう。その理想は正しい。


しかし多くの場合、私達が「自分」と呼ぶものはエゴ意識を指す。


一なる存在・宇宙を自・他に分断し、相互に反発させて境界を描き出し、差別し、差別から上下優劣を生み出し、その優性に自分を据えることが、エゴの語る「自分の幸福」だ。


それは前提に分離、反発、差別が必ず必要となり、二つの内の片方を我が物にするならば残された片方は自動的に他に押し付けられることになる。


だからこそ、自分がいくら正義になっても悪は消えない。自分がいくら富んでも貧困はなくならない。自分がいくら豊かになっても孤独はなくならない。


その二つの内の対極は集合意識内において自分以外の場所に押しやられるだけだ。永劫の輪廻において、いずれ立場は逆転する。


自分は違うと思っていたその対極の立場に、いずれ自分が立つ時は来る。自分は正義だと思っていた者もいずれは冷酷な極悪人を生きる時が来る。


理解されなかった印象は主体と客体の間を永遠に廻り続ける。理解されるならばそのカルマは解消される。理解を拒むならその拒まれた対象の立場はいずれ自分の立場に変わる。


人がどんなに物や他者との関係性を豊かに所有していようとも孤独というものが理解されない限りその印象から実在性は消えない。


「自分は孤独ではない」と思いなすのは簡単だ。しかしそれが虚偽の表明であった場合、その欺瞞はいずれ暴かれてしまう。


その時、エゴは自分が孤独であることを見て、自分でそれを裁き、自分で自分に惨めさや寂しさのレッテルを貼ることになる。


何てことはない。今まで自分以外の何かや誰かに押し付けていた苦しみが、今度は自分に返ってくるだけだ。作用には反作用がある。それだけだ。


エゴが自惚れる時、自覚があろうとなかろうと既にその種子、因子は蒔かれたのだ。自分の心に。だからそれは自分の心で発芽し、自分の心で実を結ぶ。


エゴは身に覚えなどあるわけはない。だから「何故、自分がこんな目に」と苦しむ。何故。何故だろうか。本当に冷静に考えるならば本当に冷静に分析するならばその道理は理解される。


しかしエゴは「自分は悪くない」と考えたがるものだ。私達のエゴ意識は被害者面を気取ることに関してはアカデミー賞レベルだ。


「自分は悪くない」そう思いなし、その「自分」から「罪悪」という観念を引き離す。引き離されたその観念は当然、自分以外の何かや誰かに投影して押し付けなければならない。


エゴは実際にそうする。しかしその観念は元々自分の心の内にある想いだ。その想いが生まれた因子は自分自身にある。それ故、罪悪という発想を自分以外に押し付けても、何も変わりはしない。


当人が悪いのか、他者が悪いのか、世界が悪いのか。一概に言い切れるものでもない。その三つは本質的には一つであるからだ。どれも皆、等しく悪く等しく罪があるとも言える。そしてどれも皆、等しく何の罪も悪もないとも言える。


実際のところ誰が悪いとかいう話で片付くものでもない。そこには個体性を独立して有した誰かや何かなど初めから存在してはいないからだ。


その犯人探しゲームを続けても根源的な問題は解決しない。勿論、うわべだけならば特定の誰かや何かが確かに悪い時はある。それを否定する気はない。


ただ私達はその悪や罪、裁きや断罪という発想にあまりに束縛され過ぎている。そうして人類は本当の意味での悪を数千年にわたり見逃し続けてきたのだ。


無知、無明、あるいは不信仰。これが本当のラスボスであり、唯一の悪、唯一の敵だ。もし明確な断言をするならばそういうことになる。


そしてそれは心にあるものだ。人が悪を裁く時、人は「自分は違う」という立脚地から裁く。これが無知だ。その悪は自分の一部だ。私達は皆、一つの心であるからだ。悪は正されるべきものである。


しかしそれは心を一つのものとして見れない限りは正しい行いにならない。「これは私の心。これは悪くない。それはヤツの心。それは悪い」という見地からでは差別しか見えはしない。その差別がそもそも悪なのだ。善は普遍の性質だ。


それ故、その偽りの正義は差別を強めるだけだ。差別はそれ自体が苦しみだ。その差別は無理矢理に除外を作り出し、気に入らぬ対象を押しやる。差別された役割は必ず全体に振り分けられることになる。


だから世界はそのような姿を当人に見せる。世界は私達の心だからだ。もし私達が心を正しく見れるのならば全てはその正見に従い正されてゆくだろう。


もし私達が偏見しか見れないならば全てはその偏見に従い、偏見通りの姿になってゆくだろう。


全ては自分自身の心にある。全ての悪も何もかもが、だ。それを見れるものは見者、気づきのみだ。エゴは心を主体と対象に分断し、その主体部分の視点からでしか何も見えはしない。彼は主体と対象を分断して差別するからだ。


しかしその主体と対象が本質的に一つの心であると理解するならば、わざわざ自分の心の中を分断しようとはしないだろう。初めから分断などできはしないのだから。


それを理解するには人は心を恐れず、ありのままに見なければならない。どのみち気づきは既に心をありのままに見ている。本当は誰もが気づいている。それを拒絶するのはエゴの不当な欲望だ。


エゴの不当な欲望である自己イメージが勝手にそのイメージに反するものと反さないものを作り出し、一人で勝手に争うのだ。心が内的に争い続けるからその内容が外界に反映し、実際にその争いが表現されてゆく。


個人がその流れから平和や愛の流れに移行するならば集合意識において人間一人分、平和や愛の流れがもたらされる。それが善というものだ。


特定の価値基準を満たさない何かを根絶する力が善なのではない。流れを善き方へ導く働きが善なのだ。そこには根絶すべき悪は初めから存在しない。


だからクリスチャンは「クズでクソな悪者共が皆くたばって地獄の裁きに悲嘆しますように」とは祈らず、「御心がこの地で行われますように」と祈るのだ。


正しい義の人とは御心を行う者だ。人はすぐには無理でもそのような生き方を少しずつ少しずつ志してゆくべきだろう。それが自・他・世界の平和、善、愛、幸福だからだ。


恐れる必要はない。人間の語る正義とやらは赦すことを決して知らないが、宇宙は常に全てを赦しているのだ。当人に小さな志しがあるならばそれだけで十分だ。何も数ヶ月以内にイエスや仏陀のようにならなければいけないわけではない。


赤ん坊は時間をゆっくりかけて成長する。既に大人となった私達も同じだ。ただ成長の流れを妨げなければそれでいいのだ。


ていうか何の話してたんだっけ。…孤独か。


孤独は人間の差別意識が生んだものに過ぎない。それは本当は存在しない。欲望がそれを思い込みのレベルから生み出す。それは苦しみだ。


誰もが自分の心の内にある孤独を自分の心から除外しようと必死だ。自分で自分を除外しているのだ。だからその除外の働きが外界に表現される。


もし人が孤独に向き合うならば、それは消え去る。闇に光が射すと闇はただそれだけで消え去る。闇は存在しないからだ。闇はただ光の不在に過ぎない。


存在しないものは存在するものに晒されると、ただそれだけで消え去る。


一人でもなく、誰かとでもなく、みんなとでもなく、あなた自身は自ずと存在する。その存在は孤独だろうか?孤独なのはただエゴだけだ。


そしてあなたは自分や他者という個人達に気づいている存在だ。


どうしてその存在が個独という限定に束縛されようか。


孤独とは意地汚い欲望の副産物に過ぎないのだ。