心 22 ~関係性~ | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

顕現の全ては否応なしに関係の縁に依ってのみ成り立っている。


何か一つが独自に独立してそれ自身存在することはない。


全ての個体性は関係性の中にのみ見出だされる。全ての関係性は個体性(個体同士)の中にのみ見出だされる。


しかしその関係性をよく見てみるならば、そこには本質的に個体性というものはなく、それ故関係性というものもないことが理解される。


木に生い茂る沢山の葉っぱはあたかも一つ一つが個体であるかのように見えるが、実際は木の元で一体であるのと正しく同じく、宇宙の全ても全てで一つの宇宙だ。


木に生えた葉っぱと葉っぱの間に何か関係性があるだろうか。海に立ち現れる波と波の間に何か関係性があるだろうか。


全てはただ名称に過ぎない。名称は部分を指し示すが、ある部分がそれ自身の名称を有したからといってそれでその部分の独立性・分離性・個体性が確立されるわけではない。


関係性というものは常にマインドの観念と観念との間にのみ存在するものであり、それはマインドが意識に対して付託したものだ。


実際の宇宙自体には関係性は存在しない。関係性はただ心の観念の中にのみある。


スクリーンに映写機から「ドラえもん、のび太、しずかちゃん」の三者が投影されたとしよう。


映写機の光源は一つだ。一つの光源から一つの光が投影される。その投影がスクリーンに映像として現れる。


「ドラえもん、のび太、しずかちゃん」、この三者はあたかもスクリーン上でそれぞれが独立して存在しているかのように見える。


そしてその独立した個体同士がそれぞれに何かしらの関係性を有している。それは投影された映像の流れから推測される。


三者はスクリーンの上で何かをする。互いに触れ合い、近づき、それぞれが一人で過ごし、また近づき、触れ合い…

その一連の流れから関係性が推測されてゆく。その推測からある程度固定的なパターンが見出された時に関係性は形が定まる。


この形が定まった時にそれぞれの三者の個体性も浮き彫りになる。それまではその三者のアイデンティティーは未知であり、未知であるが故に三者は存在性が曖昧だ。


しかし実際のところではそこにあるのはスクリーンでしかない。投影された光は一筋の光であり、「ドラえもん、のび太、しずかちゃん」の三つに分離した光ではない。


それは光としては存在するが映像としては虚像だ。それ故、スクリーン上の光自体には関係性も流れもない。ただ光が通過するフィルムが回るだけだ。


投影された光に映像を見て、形を見て、それぞれの形に区分・個体性を付与し、出来事や物語を見出だすのは心だ。その全ては映像の中にもスクリーンの中にもない。ただ心の中にのみある。


この心が意識という透明なスクリーンに対して、それ自身の想いを投影し、形を見出だし、区切りを見出だし、名称を付与し、それぞれの間に関係性を見出だす。


しかしその全ては一つの心でしかない。一つであるから分離はなく、関係性もない。


その全ては意識の内にのみある。心は意識から離れては存在しない。心は意識なしでは存在できないが意識は心なしでも存在する。


映像はスクリーンなしには存在しないが、スクリーンは映像がなくともそれ自体存在するように。


それが宇宙の現実だ。もし顕現をこのように見るならば、関係性の実態も理解される。


私達の個我というものはそれ自体に独立した存在を有していない。だからこそ私達は自分の存在について不安だ。


私達の個我は常に関係性の奴隷だ。その個我性は必ず関係性に依存するからだ。人が一人でいる時にでさえ、そこには様々な無限とも言える関係性が広がっている。


個我がそれ自体独立して存在を顕すことはないからだ。必ずそこには何かがあり、関係性がある。世界そのもの、物質、知覚、思考、感情…個我がある時には必ず主体・対象という二元性がそこにある。


その全てが心そのものだ。無知により錯乱した個我はそれ自体を主体であると誤解する。


そして自己は見かけ上、個我と結合し、個我が自己になってしまう。個我の思い込みの中にのみおいて。


それ故、個我は自分が存在を有して独立した実在であると誤解してしまう。しかし実際のところでは個我はそのような常在の存在を有していない。


スクリーン上の映像はフィルムの回転に従い変化し続ける。それと同じように個我もまたセットされたフィルム(カルマ)に従い変化し続ける。


それは止まらない。留まらない。フィルムの回転に強制されるからだ。それはこの世において時間の流れとして認識されている。


個我は自分が存在すると思い込んでいるが、その個我性自体が常に変化し続けるが故にその存在が安定していない現実を見る。


個我は本質的に自分の存在が一瞬も定まっていないことに気づいている。個人は本質的にアートマンであるからだ。


個我はそれを非常に恐れる。自分は存在だ!と自惚れているからこそ、その自惚れに反した現実(無常性)を恐れ、否認する。


自己と自我を混同しているからこそ、個人は自分を恒常的存在であると思い込む。その思い込みがあるからこそ、その思い込みに反する無常性という現実を否認する。


その否認は自分は個人であるというエゴの表明を支える。しかし自分は個人であるという表明によって自己が否認される。


個人があたかも存在を有しているかのように思えるのはそこに他ならぬ自己があるからだ。にもかかわらず個人は自分の存在の礎である自己を自分で否認する。


自分で自分の存在を否認するのだから、それは不断の苦しみとなる。常に満たされない。満たされないから欲望が生まれる。


欲望を満たしても不断の苦しみは一時隠されるだけであり、根本は満たされないままだ。だからまた欲望を満たそうとする。


欲望が満たせない場合、あるいは欲望が挫折すればするほど、不断の苦しみは覆いが失われ、どんどん顕になってゆく。そこに恐れを感じ個人は更に欲望を必死に追求してゆく。そこにはキリなどない。


エゴは自分が恒常的存在でありたい。しかしその自分は初めから自己ではない。自己は恒常だが、自我は無常だ。自我は自分が恒常的存在となるためにその恒常性の礎である自己を否定する。


自我が自分を恒常的存在であると感じるその根拠は自己・アートマンにある。それでいてその根拠を自分で否定するのだから、自分が無常であると自認しているようなものだ。


自分で自分を無常であると自認しながら、その無常性を恐れて拒み、自分が恒常的存在になりたいがために、自分の恒常的存在を否定する。道理が破綻している。だからシャンカラはそれを「無知による心の錯乱」と呼んだ。


事実は私達は初めから恒常的存在だ。現れることもなく消え去ることもない。しかし私達が自分を個人であると誤解する限り、私達は自分の存在を見失い続ける。


自分の存在が常に見失われ続けているからこそ、エゴは関係性に救いを見出だそうとする。その関係性があれば相対的に自分の存在が立証されるからだ。しかしそれは相対的なものに過ぎず、絶対的ではない。


それ故、その存在は関係性の変化と共に変化し、関係性の終焉と共に終焉する。


エゴはその関係性から派生したに過ぎない個我性に自分を見出だし、それを自分であると思いなしている。だからエゴは関係性の変滅(対象の変滅)を恐れるのだ。


対象が失われた時、エゴはその対象を想って泣いたり苦しんだりするわけではない。対象を心配する時でさえ、ただ利己心を想って苦しむのだ。残念ながらそれがエゴの事実だ。


だからぺテロはキリストに「下がれサタン。あなたは神のことではなく人のことを想っている」と言われた。この人というのはエゴのことだ。


しかし本当は神と人は一つだ。それ故、神を想う者だけが本当の意味で自分、他者、世界のことを想える。そうでなければ私達は単なる利己心を巧みに愛や正義に偽装するだけだ。その偽装はいずれ必ず暴かれる。他ならぬ自分自身によって。


エゴは虚偽の関係性を自ら作り上げ執着する。自分の欲望に叶う自分像が得られる関係性、自分の欲望に反する自分像が得られる関係性。


この二つ(好き・嫌い)をエゴは所有している。そこからエゴの存在感覚を抽出できるが故、エゴはそれに執着する。


エゴの愛は常に執着に過ぎない。エゴは「好き」を愛であり、「嫌い」は愛ではないと思っているのだが、執着の愛としては好きにも嫌いにも等しく執着している。その愛は虚偽だ。その愛は差別を生み出すからである。


人は嫌いな対象に「嫌い」という想いでもって執着する。しかしその固執が自認できない。だから自分で自分を否定し、更に苦しみを強くする。その苦しみを対象のせいにして更にその憎き対象に固執する。


当人は拒絶しているつもりでも実際のところでは強くその対象を求めている。その苦しみがエゴの存在感覚を強めてくれるからだ。


そのようにしてエゴの強い者ほど過剰に感情を騒ぎ立てる。不安なのだ。自分の存在について恐くてたまらないのだ。だから関係性にしがみつく。


しかし全ては空だ。本質は空だ。どんなに感情を盛り上げてもその空性からは逃げられない。感情を盛り上げても盛り下げても、それらは永続しない。空性は常にある。


エゴはその空性を恐れ、その拒絶が苦しみになり、苦しみがエゴの存在感覚になってくれる。エゴの存在感覚は常に関係性における相対的感覚に依存する。


だから私達は関係性に執着する。その関係性が実在のものであって欲しいと望み、信じる。自分が実在であって欲しいからこそだ。


しかし関係性に執着することこそが他ならぬ自分の苦しみだ。人は関係性の正体を恐れている。


それが存在しないものであったらどうしよう…エゴは恐れる。だから定期的に関係性を確認しないと不安だ。確認すると安心する。欲望通りの関係性が獲得・維持できる限りは幸せだ。


しかし本当はその関係性は苦しみでしかない。前提としてそこには分離性による孤独と差別がある。それは苦しみを生む。事実は関係性の中にはただ名称と定義があるだけだ。そこに存在はない。それ故、それは空っぽだ。


この事実を恐れる限り、人は苦しむ。この事実を理解するならば存在の不安は解消する。


関係性が非実在であると理解されても表面上関係性はそこにあるままだ。映画の映像が虚像であると知ってもそれで映像が消えてしまうわけでもない。何も恐れる必要はない。


何も変わりはしない。ただそこに実在性を付託することが止まるだけだ。それが非実在であるならば恐れることもない。


関係性が恐れ・苦しみを失えば、それは束縛ではなくなり、自由な愛の表現に変わる。原動力がエゴの恐れからくる保身的動機から、自己の確かな存在に根差した普遍的な愛になる。


彼は誰々、彼女は何々、あの子は云々、そのような識別は残る。関係性は表面上ある。しかし差別は偽りとして理解される。そして表面上の関係性はただ名称のみのものとなる。


それらの関係性は土台となる普遍的関係性がなければ現れることはない。その普遍的な繋がりこそが唯一、本当の関係性なのだ。


スクリーンに現れたガチャピンとムックには映像上の関係性がある。しかしそれは虚像の関係性だ。ガチャピンとムックは同じ一つの光だからだ。そしてその光が映像として現れるにはスクリーンが不可欠だ。


ガチャピンとムックは同じ一つの光であり、同じ一つのスクリーンで一体だ。私達も同じように自己存在の元で一つだ。


それこそが私達皆の本当の繋がりであり本当の関係性なのだ。


その真の繋がりが理解されるならば私達はそれを表面上の関係性に反映してゆくことが可能になる。


それが顕現における愛だ。


ただエゴはそれを恐れ、憎み、否定する。


私達人類の悲惨さはその無知による無益な自虐に過ぎないのだ。