悟りや解脱というものは奇妙なもので、最も重要な事であるにも関わらず最もどうでもいい事でもある。
仏陀の言葉に触れてみると、悟りや解脱そのものはあまり語られていない。
全き平安などと漠然と語られている程度のものだ。
仏陀の教えは基本的に存在苦の克服と、存在苦から派生する苦しみの抑止・防止にある。
(表現の仕方は違えど基本的にそれは全ての聖者に共通する)
仏陀の教えは「積極的に幸福をガツガツ目指してゆくスタイル」ではなく、「今ある苦しみ、およびいずれ必ず現れるであろう苦しみへの内的回避策」にある。
幸福があることが幸福なのではない。苦しみに掻き乱されない自由にあることが幸福なのだ。
悟りや解脱とは何か?悟りや解脱の成就とは何か?
それは重要な点ではない。そこに固執する事は要点を外している。
「道元はこれこれこうで悟りの第何段階までしか到達していない」
そんな話に何の価値があろうか。知ったところで何の意味があろうか。
道元やあるいは他の者がどれだけ偉いかとか、そんな話はどうでもいい。
悟りや解脱がなんだとかごちゃごちゃ脳内で独り言をくるくる廻していればそれで当人が解脱するわけでもない。
「今はまだない悟りや浄土」よりも「現に今ある自分の苦しみ、および苦しみの因子」について理解を深めた方がいい。
自分の欲望、執着。それに気づくことができれば少なくともその気づきにより個人は自分の執着を一歩離れて眺めていられる。
そのささやかな一歩の間が苦しみと自己を引き離し、越えることのできない空なる一線を引きもする。
事実、認識主体は認識対象とは異なる。苦しみがそこにある、と認識するその認識自体は認識以外何も所有してはいない。
人が何故、苦しむのかと言えば認識対象である苦しみと認識主体である自己を混同してしまうからだ。
認識対象を自己に付託し、自己の所有にしてしまうからだ。
心はそのようにして自身の内容である想念を求めたり拒んだりする。好いたり嫌ったりする。
それに応じて快や苦を描き出す。その全てが心にある。
その心、想いは何者かに認識されなければ当然、認識されない。
心に現れる想いはそれ自体に認識の能力を有していない。肉体もまたそれ自体に認識の能力を有していない。
私達は想い、および想う主体なる観念を自分自身であると錯覚しているが、事実は認識自体が自己である。
心にはアートマンの影像が宿っていると言われる。だからこそ心は自分自身が自己存在であると錯覚する。
個我の存在感覚はその錯覚によって成り立っている。それが錯覚であると知ることが個人に為しうる全てだ。
この個我の存在感覚はまた無知からの脱却経路でもある。それが本質的に自己の存在を示唆してもいるからだ。
個人はその存在感覚を吟味することによって、その存在自体は個人という限定を受けてもいなければ所有してもいないことを知る。
心(個我)は自己存在=私が個我ではないことを知る。
しかし心身は心身でそれ自体の法則、運命、カルマに従って死ぬまでは自動的に存続することになる。
それ故、仏陀やキリストが語ったように心の次元において大切なのは「今、心が善くあるかどうか?善くあらしめるにはどうすればよいか?」という点だ。
そして結局のところその点が完全に疎かであるならば如何に偉大な瞑想技術を達成しようともなんにもなりはしない。
または如何に博識であっても、如何に神秘的な意識状態に入ろうともなんにもなりはしない。
オウムの麻原が良い例だったろう。彼は初期においては修行自体、真面目にやっていたりする。ダライ・ラマや他の聖人達から解脱や境地の高さを認められもした。
私自身、麻原の博識さや霊的意識の覚醒技術の高さは普通に尊敬に値するものだと思う。
しかしそれで彼が真っ当な真人、善いヨーギ、正しい義の人であったと言えるだろうか?
そこは考えるまでもなく「否」であろう。
料理人が包丁を持てば素晴らしい結果を生み出せる。残忍な者が包丁を持てば恐ろしい結果になりうる。
霊的知識や瞑想技術なども同様である。重要なのは当人の心だ。
そしてもし心が善くあり、生き方が善いのであれば、それこそがスピリチュアルだ。
スピリチュアルに全く関心がなくとも、スピリチュアルな知識が一切なくとも、心が善くあるならば、その人自身がスピリチュアルであり、それ自体が悟りの反映だ。
「超越意識」や「覚醒」や「引き寄せの極意」だとか、そんな話はなんでもない話だ。
それらを正しく理解し、正しく扱えるだけの心がないならむしろ破滅への礎にしかならないのである。
私達に必要なのは平和、愛、幸福だ。
それらはエゴの所有物ではないし、達成物でもないし、演出道具でもない。
それらはただ当人の純粋な意志と決意にのみ依るものだ。
本を読んだり、奇妙な意識体験をすれば芽生えるものというわけではない。
勿論、それらは有益ではある。しかし動機が誤っていたなら劣化版麻原にしかならない。
麻原を卑下することは簡単だが、しかし自分があのような王様の境遇におかれた時、全く一切自惚れず正しくあれる人など滅多にいないだろう。
誰しも持ち上げられればイイ気になり、何でも思い通りになれば誰でも横暴になってゆきもする。意のままに好き勝手異性を寝とれるなら暴走もするだろう。
ただ通常、私達はそのような境遇に入らずに済んでいるだけだ。麻原は私達一人一人の欲望の戒めだ。
欲望に関していうなら麻原はたまたま暴走できる立場にあっただけだ。私達一般人とて何でも全て思い通りになる王国を個人的に所有したならば多くの人が確実に大なり小なり道を誤るだろう。
それ故、例えスピリチュアルとて動機が誤っていれば当人の欲望を強めるだけにしかならない。
だからこそ、より重要なのは日常における私達の心そのものだ。
心が善くあること…これが基本であり、第一に人が気をつけるべき点だ。
それは今この瞬間、私達が取りかかることのできる普遍的な仕事だ。
エゴはそんなことよりもっと仰々しい野望じみた話を好むものだ。
壮大な宇宙の真理や魂の遥かなる旅路、その過程における偉大なる悟り、その栄光の終着点である崇高なる解脱の境地、神々しい覚醒意識…
スーパーサイヤ聖人BUDDHA!!!
そんなのはただ厨二病を斜め上に拗らせただけの話にすぎない。
厨二病もきちんとシェイプアップすれば素晴らしいアートになる。私は厨二心を愛しているよ。それはロマンだ。
しかしスピリチュアルそのもの、および自分自身の精進においては無用のながものである。
今ここで善い心を修してゆくことが大切だ。
それは物凄く地味なことである。
いつか遠くの偉大なる境地、そこにたどり着いた暁には夢のような至福に包まれ、他者に自分を知らしめ救いや愛を与えて感謝され愛され神人のようになって…
ではなく普っ通に今ある普っ通の目の前をトボトボと独り内的に修してゆく、それが大切だ。
目の前以外に生が存在していたことは未だかつて無かった。これからも無い。
だから仏陀やキリストなどの聖者達は案外普通の善性や道徳性をメインに説いたのだ。
その「普通に善くある心」が私達人間はあまりにも欠落しているからである。
そしてもし仮に私達がその普遍的な善性を敬い、日々ほんの少しずつでも心に反映させてゆくことができたならば、それこそが神の御業というものだ。
というのも、仮にそんな人々がこの地球に一人でも増えてゆくならば、それだけ全体の平和や善性が向上するからだ。
平和はそのようにして実現される。それ以外の道では実現しない。
世界の悲惨さは神の責任なのだろうか?あるいは私達一人一人の欲望の責任なのだろうか?
もし私達が内なる神性に従えば神の本質は人の世に反映されるだろう。私達がエゴ意識に従えばその苦しみの実態が常に人の世に反映されるだろう。
それだけだ。人類全体についてはどうにもならない。
しかし今、私達は自分自身の心に気づくことはできる。
それを見た時、そこに何が見えるだろうか。想像しうるあらゆる全てが見えるだろう。
その時、その見る者の本性は何だろうか?
それはそれ自体、常に静寂だ。自然であり、何にも執着せず、何も拒まず、何も求めず、ただそれが存在するだけで全てを顕にする。
私達がその内なる自己存在を敬うならば、それが信仰というものだ。
私達は他ならぬ自己自身に平伏し、個我はエゴのレベルから普遍的なレベルへ移行してゆく。
その時、私達は自分の苦しみから自由になってゆく。
私達の心に悪しき想いが現れた時、私達はそれを見る。それを見て、それが無益であることを知り、取り合わずに自己に留まる。
想いは何であれ自ずと消えてゆく。しかし自己は消えない。その自己に心があれば、心は自然な善性を体現してゆくだろう。
心に暗雲が射し込む時、私達はいとも簡単に動揺する。日蝕が起きた時に太陽が消滅してしまったと勘違いするようなものだ。
太陽が消滅してしまったと信じるなら恐れからなる苦しみも生まれよう。しかしそこに太陽は消えずにあると知るか信じるか実際に見るかすれば、私達はその光を内的に失うことはない。
知ることは識別智だ。信じることは信仰だ。見ることはトゥリーヤなどの体験だ。何にせよ、誤解がなければそれに付随する全てもない。
しかし心はそれ自体、想いは続く。ギーターには「願望は賢者の心に流れ入る。しかし賢者は動揺しない。賢者は平安を知っている」と記されている。
心身が存続する限り、そこには必ずインプットが入る。外界からの知覚は必ず入り、必ず反応が生まれる。それ故、「願望は賢者の心に流れ入る」と記されている。
動揺の兆し、因子自体は例え解脱者でさえ受ける。その点では私達一般人と何も変わらない。
そのことは問題ではない。そこで私達が心の想いに呑まれきってしまい、自ら自分を動揺に掻き立て、自己を見失うことだけが問題だ。
仏陀が岩の欠片を踏んでしまった時、彼は足を酷く怪我した。その時、彼には酷い痛みが走った。しかし仏陀はよく気をつけ、気を静め、自己の平安に忍耐強く留まった。
原始仏典を読めば釈迦個人を神格化することは仏の道に反していることがわかるだろう。
「私のような凡人にはとてもお釈迦様のような境地には近付けません」とか平気で言う者もいるが、それなら初めから仏陀の教えに触れる意味もないだろう。
当人はそれで自分の頭を低くしているつもりかもしれないが、実際は仏陀の教えをバカにしているようなものだ。極一部の特別な人しかその教えは実践できない、と決めつけているのだから。
釈迦はとっとと入滅したい欲望を抑止してわざわざ万人に適応できる教えを発案してくれたのだ。当然、当人にその気がなければ仏陀の教えは何の役にも立たない。
しかし当人が実践するなら、仏陀の教えが万人に効果的であることはわかる。釈迦を狡猾に神格化していればそれで自分の怠慢を正当化できるわけでもない。
仏陀とて怪我すりゃ普通にクソ痛いし、いきなりデカイ音が鳴ればビクッとするし、野生の像に遭遇すれば身の危険を感じてビビるのだ。ゴロゴロ休んでいれば「私、こんなことしてていいのだろうか?」と自責の念がよぎりもする。
しかし仏陀はそこで情動に呑まれないことを選択する。
私達もそのようにあるならば苦しみを抑止できる。
そしてそれは当人がどうするか?だ。エゴ意識をそのまんま放っておけば阿弥陀が救ってくれるもんでもない。
私達は心に理解を示し、平安(自己)を知り、実際に心を静めねばならない。
それは自らが生きてゆかねばならないことなのである。