心 16 ~自然な幸福~ | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

私達が本当に必要としているのは劇的で過剰な幸福ではなく、自然な幸福だ。


過剰な幸福は必ずそれに比例した苦しみを生み出す。確かにそれは苦しみを含めて楽しい。


苦しみを含めても楽しい…とはいえ限度はある。いずれうんざりする時は来る。


そして追求というものには限度がない。人は幸福をもっともっと、と追求する。それに従いハイも高くなる。


ハイの状態とは結局、興奮に過ぎない。その反動は何かしらの苦しみとして現れる。ハイが強まれば苦しみも強まる。


限度のない苦しみというものは実に恐ろしいものである。


その苦しみが今、自分の元にはないとしてもそれは自覚もないままに世界全体・集合意識における自分以外の場所に押し付けられている。


押された波が引いて戻るようにいずれそれは自分の元にやってくる。その時、私達は苦しむ。


現代の幸福はそのような魔性にある。


それはエゴ意識の高ぶりにあり、優劣を作り、勝敗を作り、平和に反する流れにある。


人の世は実際、平和ではないだろう。それは単に人々の欲望同士が互いに争っているだけに過ぎない。


それは善いことではない。


それ自体に反動を生まない幸福は自然性にある。心を揺さぶる幸福ではなく、心が普通にあることの幸福だ。


普通にある、とは私達の存在性に基づく心だ。


私達がただ静かにポツンと在る時、その存在自体に何か特別なことはあるだろうか?


何か劇的な情動はあるだろうか?


過去、現在、未来を巧みに飾り立てた大袈裟な脳内ストーリーがあるだろうか?


ないだろう。


その存在自体そのものには自己存在以外には何もない。


何も起きない。何も現れず、何も消えない。


それは平安だ。


私達の存在そのものは常にその本性上、平安だ。


私達が愛し、慈しみ、敬うべきはそれだ。どのみち存在する全ては自ずと自己を愛している。


エゴが自分を愛すには努力が必要となる。そこには必ず愛すための条件があり、条件が全く満たせない場合エゴは自分を卑下する。


条件が満たせている場合、エゴは自分を愛すがそれは厳密には愛ではない。自惚れに過ぎず、差別に過ぎず、執着に過ぎない。


それはその条件に見合わない何かを大なり小なり必ず憎むことになる。


それは苦しみとなる。


心がエゴではなく自己に順応すれば心は自己の性質を反映してゆく。意識する必要はあるが努力する必要はない。


とはいえ心はあまりに「自分の想い」に占有され過ぎてしまっているが故に、そのシンプルな自己存在を完全に見失ってしまってもいる。


それ故、努力が必要になるとも言える。


何であれそこで個人に必要とされることは為されなければならないだろう。


ただ、本当はそういう手間は必要ないのだ。


精々、心身の姿勢を普通にきちんとしていればそれで十分だ。


しかし私達のエゴ意識はその普通にあることを何か無個性でつまらなく無意味なことであると恐れている。


エゴ意識は自分の特別性に固執して自分の存在を顕示しようとあくせくする。


派手に幸福を宣い、派手に苦しみを宣い、必死に自分の存在をアピールする。


それは意識の空性に対する抵抗だ。


この抵抗の衝動が弱まるにつれ、エゴ意識は薄まる。


空一面を覆った雲が薄れてゆくほど陽の光は顕になってゆく。


心もまたそれと同じなのだ。


ただ光を隠しているものを除去するだけでいい。個人が光を作ったり手にしたり見つけたりするわけじゃない。


ただ障害を静かに避けるだけでいい。


私達が長年馴れ親しんだ「自分」というものの特別性から自己存在の普遍性に焦点を移行することは、エゴ意識にとって非常につまらないことではある。


しかし忍耐強く意識の自然性に心を留めるならば平安は顕になる。


ある段階に来れば、今までの自分が如何に無駄に自分を苦しめていたかがわかるだろう。


ニサルガダッタ・マハラジは「ただ在りなさい」と語った。それが最も迅速に心を浄化すると彼は語った。


エゴ意識が自分を紡ぎ出す不断の作業から離れ始めると、その自分は自ずと静まってゆく。


特殊な瞑想の集中技術は必要ないし、何か対象としての神を信仰する必要もない。特定の宗教を信仰する必要はなく、属す必要もない。


複雑な知的分析も必要なく、悟りや解脱を求めて苛烈な修行をする必要もない。


ただ在る。


確かにこれが最も迅速に心の誤解を落として正してゆく。


私はかつて自分なりに色々な瞑想法を試し、色々な霊妙なる意識体験を経てきた。


しかし私が最終的に基本の形として落ち着いたのは「ただ座るだけ」の禅であった。


何を求めるわけでもなく、何を拒むわけでもなく、何か特定の意識状態を意図するわけでもなく、さりとて虚脱に沈むわけでもなく、ただ在る。


これが一番、直接的である。一番楽で、なおかつ一番効果が強い。


ただ何か特殊な意識状態を体験したいならば、特殊な集中状態に心をもってゆかねばならない。


それを望む人はそれに応じた努力をするしかない。


しかし心の平安を望むのであれば、ただ静かに在ることだけで十分だ。


結局、解脱自体もそれが最も迅速だろう。宇宙の細々した話を全てすっ飛ばし直接、真我に向かうのだから。


ただ在る、何もしない。それは非常に力強く心の曇りを落としてゆく。


心が存在に留まる時、その他全ては自動的に落ちてゆく。


心に現れる対象というものは自我自身がそれを掴み、自我自身が同一化して維持しなければ存続しないからだ。


この働きが絶たれるならば、全ては自ずと自壊してゆく。


しかし存在は変わらない。自己は何も所有せず、行為に依存せず、変化せず、自ずと存在する。


それは平和だ。


多くの人は悟りや解脱などどうでもいいだろう。


私もどうでもいい。


それより心が今、善くあるか、悪くあるか、だ。そして心に暗雲が射し込んだ時、どのようにして自らを護るか、だ。


自己・アートマンは存在であり、意識であると言われる。


個人がただ静かに在る時、自ずと平安は顕になる。


それだけのことがエゴ意識はどうしても気に喰わないだけなのだ。


個人がその自分に固執する限り平安は望めない。それならそれでいいだろう。


好きなだけその我の個性とやらに耽溺させておけばいい。


しかしその苦しみにほとほとくたびれたのならば、キリストが語った通りその重荷を降ろすといい。


そしてわざわざ自分から心を騒がせないことだ。


仏陀は荷物を降ろしたなら再び背負うなと語った。


今、ここで私達はその重荷を降ろすことができる。それは単なる想いに過ぎないからだ。


その苦しみの想いがなくとも私達は日常において為さねばならないことはできる。


私達が執着を理解するならば、想いの重荷をヒョイッと降ろし、ホッとすることができる。


そこに自分はない。しかし存在はある。


存在があるが故に心身もまたある。


心身はそれ自身が存続する限りは行為してゆく。


しかし意識そのものは行為しない。


行為が起こること、想いが現れること、全ては自然なことだ。


何を騒ぐ必要があるだろう?


誰が騒ぐというのだろう?


何故、騒がなければならないのだろう?


全てはエゴ意識の「我の所有」にある。


それは単なる思い込みに過ぎない。


何も誰のものでもない。自分の心に現れる想いでさえ、誰のものでもない。


全ては現れ、消える。


しかしその一部始終を見るものは在り続ける。


いつであれ「私」は必ず当人としてそこに在る。


この「私」が何か特定の個人であるという誤解が正されればいい。


自然な幸福はその自己存在そのものだ。


この世の全ては単なる印象に過ぎない。印象は無限にあるように思える。


あの印象、この印象…しかしそれらをよく観察してゆけば全てはシンプルになってゆく。


二つであったものが一つとして見られ、多数であったものが単一に見られてゆく。


全ての印象を最もシンプルな観点で見るならばそれは「自分」だ。


この自分という存在感覚の印象がある時にだけ全ては現れる。この自分という存在感覚の印象はそれ自体に独立した恒常的存在を有していない。


この自分というものは私達にとって第一の未知である。未知であるから不安なのだ。


私達はその自分について不安だ。不安だからこそ自分の存在を保証してくれる何かを求め、執着し、依存する。


私達は自分の価値や意味について不安だ。不安だからこそそれを証明し、それを顕示したい。


その全てが無意味なのだ。無意味であるから希求の強さに応じて情動も強まり、情動の強さに応じて虚しさもまた強まる。


そんなことをする必要はない。


私達は自分について不安であり、恐れがあり、心配がある。


それは自分という存在に対する誤解だ。自分という存在を小さなレベルでしか見れていないからだ。あるいは自分という存在をあまりに見くびり過ぎているだけだ。


自分とは何か?


この自己に関する無知、誤解だけが全ての苦しみの原因だ。


これはいくら本を読んでもいくら頭で考えてみても、どうにもならない。


当人が当人自身の自己存在を理解しない限りは誤解は続く。


しかし本当はそこには理解される自己と理解する自分という二元性はない。


「私は在る」、誰もがそれを当然のように知っている。その存在そのものには「それ以外の何か」はないのだ。


もしそれを知るならば、他に知るべきことはない。


後はただ心が悪しき方向性へ流れることを自制するだけだ。


それは自然となされるだろう。


誰も自ら進んで苦しみの泥沼に飛び込みたいとは思わないし、思ってもいないからだ。