私達が平安を修してゆくことは「平安を獲得する」というニュアンスではなく「平安に反するものを放棄してゆく」というニュアンスにある。
便宜上、「平安の獲得、実現」という表現は用いられるがそれを言葉通りに受け止めるべきではない。
少なくともその獲得、実現、成就は自我の欲望のそれとは意味合いが異なる。
平安は「今はまだないが、ある条件を満たすと入手できるもの」ではない。
そのように想像すると時間の概念が現れ、道のりが現れ、成功と失敗が現れる。それではただの欲望に過ぎなくなる。
欲望は時を要するものであり、条件に依存するものであり、変化が免れ得ない。その結果はいずれ必ず消え去ることになるだろう。
私達は欲望を満たした時、平安を感じる。しかし平安自体は欲望の成就の中にはない。
欲望が満たされ、その焦燥が消え去ったが故に元からあった平安が顕になるだけだ。
平安の礎となる自己は常にある。ただ心が欲望に占有される時、欲望の性質が心に反映される。
欲望の性質とは動揺、興奮、恐れ、期待、心配、怒り、等々…苦しみだ。
ひとたび心が欲望に占有されきってしまうと、その欲望の苦しみは欲望が成就されるまでは消えない。
成就されると消える。その時、落差が生まれる。この落差に個人は快を感じる。
重い荷物を自ら背負い、ジリジリ耐えた後にそれを降ろすと落差が生まれる。
人は軽くなったと感じる。解放されたと感じる。高揚し喜びを感じる。
この落差が欲しいがためにエゴ意識はわざわざ自分から重い荷物を背負い込む。
重い荷物を降ろした時、当人そのものが「苦しむ人」から「幸福な人」という別人に変わったのだろうか?
荷物を降ろして何かを新たに得たのだろうか?
自然に戻っただけだ。
この自然性自体は常に変わることなくある。ただ心の想像、想念だけが変わるだけだ。
幸福(快)も不幸(苦)もどちらも単に想いに過ぎない。
自己は想いではなく、想いを持つものでもなく、想いに変化させられるものでもない。
この理解を当の心に深めてゆくことが心の基本姿勢を変えてゆく。
結局、自我が勝手に想像し期待する幸福などというものは存在しないのだ。
自我は自分が幸福であると定義する特定の状態に留まりたい。それは無理な話に過ぎず、理を無理矢理無視した不自然なものでしかない。
全ては変化するからだ。
個人が我欲により造り出した幸福は必ず消え去る。それが存在を有していないからだ。それが偽証の上に成り立った偽装でしかないからだ。
だからそれは消え去る。隠されたものはその時、顕にされる。
個人はそれを見て苦しむ。自分を幸福であると判決していた秤が今度は自分に苦しみという判決を下す。
私達は幸福を失った時、自分は不幸になったと感じる。何てことはない。それが初めから当人の実態だったのだ。
ただあらゆる対象を利用し、そこから快を貪ることにより、自分を立派に見せていただけだ。
その対象がなくなれば当然そこから得ていたものもなくなる。あらゆる手段で隠し通してきたエゴ意識の実態が顕になっただけなのだ。
エゴ意識の自惚れとしての幸福はその根底に必ず自己卑下が潜んでいる。それが罪と呼ばれる。
この自己卑下が自分の自己に向かうのか、他者の自己に向かうのかは自己にとって関係はない。自己は一つであるから。
自分を立派(幸福)に差別していたその差別観が自分をまた卑小(不幸)に差別しもする。
個人はそのエゴ意識の不当な差別を見極めなければならない。事実に反する差別は不当である。不当の結果は苦しみとなる。
ただ私達のエゴ意識は基本的にその自覚が全くない。幸福に酔いしれる時、私達はそれが善いことであると思う。
まさか自分が冷酷な差別観によってその幸福を不当に略奪しているとは夢にも思わない。
何故ならその幸福は煌めかしいものであり、美しく、高揚的であり、素晴らしいからだ。
しかし実態はキラキラしたものではなく、ドロドロしたものに過ぎない。
メディアが煽っている理想の幸福などはそのようなものに過ぎない。
それを望むならそれでいい。
しかしスピリチュアルにおける幸福はその方向性にはない。スピリチュアルにおける幸福は差別性ではなく普遍性にある。
差別は常に違いを作り出す。それ故、あの時は幸せだったが今は違う、あの時は不幸だったが今は違う、という具合に差別観に基づいている。
この差別なくしては幸福が生まれない。それ故、その幸福は対極の苦しみに変化しなければ維持できないという奇妙な矛盾にある。実際、その幸福はいずれ失墜する。
それは個人にとって恐ろしいことである。それ故、そこからの脱却が望まれる。
スピリチュアルにおける幸福は差別を必要としない。それは普遍性にあり、普遍であるが故にそれ自体には差別がない。差別がないが故にそれ自体は不変である。
その幸福を心に反映してゆくには想いの過剰性を静めてゆく必要がある。その幸福は自己の自然な本性である。心が自己に向かうと心は自己を反映する。
幸福はただ想いの過剰性を静めてゆくことの中にのみある。
想いが静まってゆくならば想いの振り幅はバランスが取られてゆく。快と苦は双方共に過剰性から離れ、穏やかに静まってゆく。
そこには爛々と輝くエゴ意識の輝きなどはない。それ故、その対極もない。それが心における平安だ。
しかしエゴ意識はそれが気に喰わない。つまらない。エゴ意識は自分自身こそが自己であると思い込んでいる。
このエゴ意識の勘違いから起こる諸々の足掻きを静めるには心を清浄にしてゆく必要がある。
全ての聖典・聖者が普遍的な善性や道徳性を説くのはそのためだ。
よくよくそれらの教えを読んでみれば、大袈裟な宇宙の真理や仰々しい解脱の境地などはほとんど説かれていない。
基本的には普通の善性や道徳性が多く説かれている。それが自己の本性に順応した在り方だからだ。
カルマヨーガは行いを正すことにより心を正してゆく。以前も記したが私達が互いに合掌して恭しく御辞儀でもするならば、その瞬間私達は争うことが不可能な状態にある。
その瞬間、心はその態度に応じた形態を纏う。それは心に僅かながらでも印象として刻まれることになる。この印象は善のカルマだ。
クリシュナは「礼拝によって罪は消え去る」と語る。心と態度・行動は密接に関わり合っている。態度・行動を正すならばそれは心にそれ相応の影響を与えてゆくことになる。
心は行動によって汚れもすれば清浄になりもする。
ただカルマヨーガの場合、前提として無私であることが必要となる。
「自分がそれをしている」、「自分が見返りとして功徳を積める」等々、そういった想いはエゴ意識に根差すものであり、人は注意深く自分の心を見てゆかなければならない。
今の自分ができる範囲で心をほんの少しずつ清浄な方向性へと切り替えてゆく…これは私達が日々の中で毎瞬、普通に意識できることだ。
そのために血ヘドを吐くような努力は必要ない。
ただ私達は平和や愛、純粋で無理のない喜びや自然な幸福を必要としているだけなのだ。
それは私達が何か立派で偉大な人間になるということではない。本当に立派で偉大な人間とはキリストが語った通り、神に対して自分の頭を低くすることができる人間だ。
別の表現ならば真実の自分自身である自己に対して他ならぬ自分自身が謙虚な敬いを持つことだ。そのような人々は自己を抑圧しない。
ある類いの人々は自分を立派にしていい気分を味わうためにスピリチュアルに関心を持ったりもする。
「凡夫が仏法を学んでも自分をエラクすることばかり」と澤木興道老師は語った。
私達のエゴ意識は自分がエラクなりたい。立派になりたい。そうしていい気分を味わいたい。他者に尊敬されたい。他者が知らないことを自分だけ知って、それを教えられる特別な自分になりたい。
偉い自分が憐れな人々に救いを与えたい。自分が救いを広めたい。富める自分が憐れな人々に愛や希望を与えたい。
こういうのは善くないことです。
そんな大袈裟な話はもう十分、俗な世界・欲望の世界でヤリきったろう。
今、ここにあるただの自分があれば必要なものはもう十分に揃っている。
心を清浄にしてゆく、ということは何か立派なもんになるということではない。
そうではなく、それは今まで自分にくっつけてきた「我の所有」という重荷(想い)を落としてゆくことだ。
新たに何かを増やして立派な所有を実現するのではなく、増えも減りもしない自分を見出だすのだ。
その自己の中には差別がない。この無差別性が心に反映するとそれは識別智として心の中で機能する。
識別智は自己存在に基づいている。識別があるならば差別観を元にした心の光と闇は単なる想像として見られる。
それが想像に過ぎないことが理解されるならば個人はそれらを自ら過剰に騒ぎ立てる働きから退いてゆく。わざわざ大袈裟に騒ぎ立てる意味がないからだ。
それに伴い個人は隠されたエゴ意識の実態である苦しみから自由になってゆく。
エゴ意識は孤独や不幸や虚無感を隠し持っていて本能的にはそれに気づいてもいる。エゴ意識はその闇に対して恐れを持っている。「それは自分ではない」と拒絶している。
しかしその闇もまた自分自身の心の一部だ。それ故、その拒絶は自分自身に向いた苦しみとなっている。この苦しみを否定するものが世に言う幸福だ。
ひとたび心が自己を理解し始めるならば識別智によってそれら全てが非自己となる。
それら全ての過剰な二極は双方共に穏やかになり、光と闇は明かりと影になってゆく。初めからその二つは別に対立などはしていないのだ。
清浄な心というものは短絡的な意味での善ではない。自己を理解した心が清浄なのであって、心に一切負の想いや悪い想いが存在しなくなるというのが清浄なのではない。
心に負の想いや悪い想いが現れても動揺しない心が清浄なのだ。識別に差別はないからである。
清浄なのはあくまでも自己であって自我の方ではない。自我は何であれ世界に満ちたものを想念の反映として目撃することになる。そこにはおぞましい闇や悪もあることだろう。
悪は悪、善は善、それだけのことだ。わざわざ個人がそれを裁く必要はない。ただ悪は苦しみとなり善は幸福となる。その識別に基づいて心は為すべきことを為すだけだ。
エゴ意識が自分が清浄になろうとする限り、心は清浄にはならない。その心は自分に善い面を見ては浮かれ、悪い面を見ては苦しむだろう。それでは意味がないしキリもない。
非真我が真我に変わるということは永遠に起きないからだ。非存在が実在になることはない。
エゴ意識が自分を自己であると誤解し、自惚れることが汚れなのであり、この誤解が正されてゆくならば心にどんな想いがあろうと差別はなくなる。
差別が落ちればそれに伴い自然と悪しき想いも落ちてゆく。差別が悪であるからだ。
識別があればそこにはただ気づきがあるだけだ。それは差別することなくただ識別し、本来の自己に順応したものを現してゆく。
それ自体はとてもシンプルだ。
そのシンプルな自己にあれば心もまた徐々に自然と静まってゆく。
そして自己の性質である平安は心に反映として現されてゆくことになる。
「平安はまだない、今はない」と信じるのではなく、「平安は常に自己の本性としてある」と固く信じた方がいい。
前者は事実に反するが故に虚妄に過ぎないが、後者は事実に基づくが故に意義のある信だ。その信に心が基づくならば心に動揺が現れても気づきの自覚に留まっていられるだろう。
私達が望むべきものは虚偽を信じることではなく、真実を信じることの中にこそあるのだ。