心 14 ~興奮~ | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

基本的に現代人の喜びや嬉しさ、幸福は興奮の性質にあると思う。


それ自体は悪くもないのだが、その中に本質的な幸福が存在していると思い込むことはよくない。


そこに幸福はないからだ。探しても探しても見つからない。結果的に興奮に対し精神的な依存状態になる。


個人は興奮の中に幸福を探し、あらゆる手段を使い興奮を実現する。


その時、個人は望みの状態を再現し、満足する。しかし興奮は減衰し、消え去る。


そして当人の精神内に記憶を基にした落差が生まれる。以前、虚無感について記したいくつかの記事でこのメカニズムは述べたが、ドラッグと同じパターンだ。


興奮というものに執着ができてしまうとその心は良くも悪くも動揺しやすい性質になってゆく。


私はかつて感動するのが大好きで自分で自分を感動状態に持ってゆくことに固執していた。


元々感受性は豊かな方だったと思うが、それを自ら意識的に自分で盛り上げていったものだから私の精神エネルギーの躍動はかなりオーバーだった。


よく言えば感激屋、悪く言えば落ち着きがない、という具合に。


しかし人の数倍喜びが強ければ、苦しみもまた数倍強くなる。感情が強ければ、それに比例して虚無感も強くなる。


私はそこに苦しみを見て、その方向性を追求することを止めた。


私達は「自分の性格は生まれつきだから変えられない」と思いがちであるが、そんなことはない。


その自分とやらはそんな大したものではない。自覚もないまま自分で自分を演じている程度のものに過ぎず、単なる習慣の集大成に過ぎない。


もし私達が「意識」を生きるならばその意識が心を作ってゆく。


その意識を自覚するならば私達はただ行き当たりばったりの影響からの副産物にすぎない自分をきちんと自己統制できる。


数ヶ月前、私は音楽を聴いていたら鳥肌が立った。所謂、感動した状態だ。


「ん、これは感動している反応だな…」と思いながら私はその鳥肌の感覚を観察していた。


そこで気づいたのだが、その鳥肌が立つ感覚そのものは快も不快もどちらも同じということだった。


どういうことかと言うと…

私達は黒板がキーッと擦れる音を聴くと鳥肌が立つ。また自分にとって何か気持ちの悪いものを目にしたりすると鳥肌が立つ。ホラーちっくなものも然り。


人によってその反応が起きる対象は色々だと思うが、ゾクゾクッとするあの感覚は誰にでも経験があるだろう。


あれ、嫌だろう。


しかしよくよく冷静に身体の反応だけ見てみると、鳥肌が立つことやゾクゾクする感覚というものは、快楽的なものも不快的なものも同じなのだ。


片方は快楽として解釈され、片方は不快として解釈される。しかし体感的には同じだ。


不思議だなと思った。


体感自体はどちらも同じ鳥肌であり、どちらもゾクゾクするものなのだが、その感覚が好ましいものから得られた場合には快楽となり、好ましくないものから得られた場合には不快となる。


おかしなものだ。そこには特に意味はない。


かつて私はそこに大掛かりな意味付けをして一人で騒いでいたものだが、本質的に意味はない。


だからこそ心の陰に虚無感がひっそりとくっついてくる。


「本当は意味なんて無いんじゃないのか…」、この恐れや不安が虚無感を想起させる。


きちんと直視するまでそれは消えない。直視するなら消える。


恐れることはない。虚無感など単なる妄想の産物にすぎないからだ。ただそれは代償なのだ。強い光が射すならどこかに必ず強い影もまた射す。それだけだ。


それとは別の光がある。私達が真に望むべき光はそれだ。その光を少しずつ理解してゆくならばマインドにおける光と影はバランスが取られる。


強い光の輝きが幸福なのではない。バランスが幸福なのだ。


好きなもの・嫌いなもの、その二つは正反対ではあるが「無視できない」という点において執着は等しい。


大好き!という興奮と大嫌い!という興奮は、恐らく脳内における分泌物は違うと思うが、どちらも興奮状態という点は同じだ。


もし人がこの興奮の追求・増強に従事するならば、快・苦という二つの側面は強まってゆく。


現代人が社会全体を上げてやっていることはそれだ。


そして光に付随する闇というものは、必ず何かしらの形で現れることになる。


当人の中でその差別があるからだ。


今、正にこの世の富に浮かれ、自惚れる者は光の真っ只中にあることだろう。


しかしそこには対極という概念が必ずある。この対極、つまり不幸を人は恐れる。それを避ける。それを嫌い、自分から遠ざけようとする。


人の世の幸福は基本的に差別が生み出すものであり(純粋性にある幸福は普遍性にある)、差別は必ず二極の形を取る。


人の世の幸福が差別にあるが故、幸福の議席数は決まっている。誰かが必ず不幸にならなければならない。


私達が理想を追う時、それが宇宙の普遍性に根差した理想でない限り、その理想は必ず差別を当人の中で生み出す。


エゴ意識の理想は常に自分という支点にある。興奮の高揚を目的として自分を理想の形に仕立てあげる時、その基準としてそこには差別がある。


興奮の高揚という理想は、それとは正反対の場合、消沈の落胆となる。当人の心にこの二極の差別が生み出される。


人は自分が理想通りの時に高揚し、理想の正反対の場合に落胆する。そこには精神的な情動作用において明確な差別が存在する。


私達はその二極の内、興奮の高揚を我がものにせんと奔走する。実現するならば個人は実際に興奮の高揚を体感する。


高揚のピークは一時ではあるが、その高揚は平均値の底上げに繋がる。その獲得は記憶に印象として刻まれ、自己イメージの部品となる。我が所有という印象が積もれば積もるほどエゴ意識は姿形をはっきりと示してくる。


それ故、社会において望みの富を十分に得ているものは心が平均的に高揚した状態にある。


しかしそれはそれ自体が対極の落胆的感覚に依存している。この闇は当人の心の奥に隠された印象として蓄えられてゆく。


隠されたものは何かしらの形で顕になる。キリストも仏陀もそう語った。


実際にその闇は当人に何かしらの形で示される。自分とは異なるものとして。


先の記事に記したが、クリシュナは「自分のためにのみよい食物を用意する者はそれを食べるようにして罪を犯す」と語る。


何故これが罪となるのかと言えば、宇宙に本来存在していない違い・差別を作り出すからだ。


そしてこの差別から生まれた二極の内、不幸の方は精神的な次元において誰かや何かに押しつけなければならなくなる。当人がそれを拒むからである。そうでなければ自分がそれを喰らわねばならなくなる。


それ故、個人は幸福を望み、不幸を憎む。個人は大変な努力を敢行して幸福を実現する。そして浮かれて自惚れるのだが、心においては概念的にその対極である闇というものが消えずにあるままだ。


これが当人の見る「自分とは異なるもの」という対極として対象に付託される。そこには「自分は違う」という差別がある。


これが識別の場合、問題はない。識別には情動作用の差別がないからだ。それ故、差別観ではなく識別観を生きる者は基本的に情動の振り幅が穏やかになってゆく。


興奮と落胆が静かになってゆき、個人はそこに平安を見出だすことになる。


しかし差別はそこに必ず過剰な情動作用がある。だからこそ人は興奮の高揚を味わうことができるのだが。


個人は自分が想像により生み出したその二極をあらゆる次元で行ったり来たりする。この変化自体が輪廻と言われる。輪廻は何も死んだ後の話ではなく、瞬間瞬間における個人の自己喪失による遭難だ。


何にせよ、人は結局のところ遅かれ早かれ自分が望んだ状態を実現し、いずれはその反動・代償として自分が恐れた状態もまた実現することになる。


これは個人が差別観を生きる限りは避けられない。自分の代わりに誰かが味わった惨めさはいずれ自分の番に回ってくる。自分の代わりに誰かが味わった自惚れはいずれ自分の番に回ってくる。


この全てが無意味で無益である。それは全く理想ではない。理が想われていない。想われているのは「自分のエゴ意識のこと」のみである。


私達が自分を想い、自分に善くすることは自然であり真っ当なことだ。そうでなければ私達に幸福は望めない。


ただ私達はその自分という存在をあまりに小さなレベルでしか見れていない。それだけが全ての悲惨さの原因だ。


聖典は「あなたは神である」と言う。「神はあなたの内に在る」と言う。「神とあなたは一つである」と言う。つまり私達は本来、私達が思っている以上に素晴らしい存在なのだ。


それは誰もが薄々気づいてもいる。ただその自分の素晴らしさがエゴの差別意識と欲望に限定されることが誤りだ。


私達は「自分はもっと素晴らしい存在のはずだ。自分は幸福であるべきだ」と誰もがそう感じる。そうでなければ誰が理想の自分などを追求するだろうか?そうでなければ誰が不幸に苦しむだろうか?


不幸は本来の自分の姿ではない、という圧倒的な確信があるからこそ私達は不幸に対して抵抗を感じ、実際に苦しむ。


ただこの内なる確信が誤解されているだけなのだ。


その誤解が興奮の高揚の中に幸福を見出だそうとする。その状態の自分こそが本来あるべき自分の姿だ、と誤解する。この思い込みが欲望となる。


それは全て「このような状態にある自分が本来の自分だ」という想いに依っている。しかし私達の自己存在は如何なる限定も受けはしない。


だから自我の勝手な理想がいくら実現されようともそれ自体の中には本当の自分が見つからない。


上がったものは必ず下がり、得られたものは必ず消え去り、私達の追求は休む暇もない。


興奮の高揚は消え去り、自我は自覚があろうとあるまいと再びその興奮を再現しようと欲する。繰り返し、繰り返し。しかしそこには何もない。追求が強まれば強まるほど、理想は高くなり、実現の興奮もまた高くなる。


しかし興奮が強まるほどそのピークは短くなってゆく性質にある。自我が慣れてしまえばもはやそれは当たり前のことにしかならなくなる。


興奮に依存すれば、人は苛立ち易くなる。苛立ちもまた興奮だ。退屈、苛立ち、消沈、不安、心配…それらは興奮の持つネガティブな面だ。


私達が興奮を追求するならばその負の面も必ず付随する。差別観は美しい光を見せてくれる。しかし闇もまた付随する。


この働きを抑制してゆくことが平安を顕にしてゆく。何も無理をして心を抑圧する必要があるわけではない。私もまた時には「わっほ~い♪」と楽しむことはある。


聖者達でさえ時には声を出して楽しそうに笑ったりもする。ただそれはあくまでも一時のことに過ぎず、そこに本当の自分や本当の幸福があるわけではない。


ただ心は自然な統制が必要とされているのだ。心は自己なしには存在しえない。自己は何であれそれが触れる全てを顕にし、その存在性を全てに等しく与える。それは愛であると言えよう。


私達は皆、愛を必要としている。そしてそれは自分自身の自己、真我、内なる神性をおいて他にはない。私達の心は自己なしには存在しえない。その愛なしには存在しえない。


それは決して興奮の高揚にあるものではない。それは決して差別的な特別性を有したものではない。


それは自然なものだ。


何故ならそれは自ずとそれ自体存在し、自己を目的として自己として在るからだ。


興奮もまた確かに一つの楽しみではある。それは素敵なものだ。


しかしそれ以前に第一に大切なものを蔑ろにしてまで追求する価値はないのだ。爆弾や銃弾が飛び交う中で金銀財宝を所有していたところでそれが何の楽しみになろうか。


平和でなければ何も楽しめはしない。それは私達個人個人の心においても同じなのである。