私達のエゴは情動を愛する。情動が激しくざわめく時に限り、幸福や不幸が現れる。
情動が穏やかにあるならば平安があり、その平和な性質が本来的な幸福と言える。
心が平安にあるならば世俗の幸福をいくら享受しようと反動は生まれない。
得られたものはいずれ変滅するが、心が平安にあるならば当人は対象の変滅を不幸に脳内変換しない。
しかし世俗の幸福から過剰な情動を生み出す者はその反動を必ず自ら被ることになる。
押された波はやがて引いて戻る。その波はまたやがて反動で押されてゆく。
私達がこの波を自ら強く掻き立てる限り、心の海面は穏やかにはならない。
私達が波を自ら掻き立てる作用を控えるならば、やがて波は自然と静まる。
海面が穏やかになれば、空にある太陽の光が綺麗に反映するだろう。
波自体は生きる限り、自然と生まれる。感情自体は自然なものだ。
感情を殺そうとしたところで今度は虚無感という別の感情が狡猾に現れ出るだけだ。
ただ過剰な情動、度を超した感情だけが問題となる。私達の自己に反した感情は常に過剰であり、最終的には必ず苦しみに終わる。
過剰な情動は自己存在を見失った個我だ。その個我はエゴだ。エゴは自己について無知であるが故に自身の存在について不安になり、自分の存在を確かめようとする。
エゴにとって自分の存在感覚の礎は感情にある。それ故、感情を自分であると錯覚する。自己から離れていればいるほど、当人は感情の波を強く掻き立てる必要が出てくる。
そうでなければ自分の存在証明が得られないからだ。事実は存在に証明は必要ない。存在自体がそれ自身不動の証明であるからだ。
存在が疑わしいものだけがその疑念を否定するために証明を必要とする。
個我はそれ自体に実質的な存在を有していない。それをうっすら自覚しているが故に自分について不安がある。
この恐れ・苦しみは神が人に与えたものではない。人が神・自己を憎み、それを否定し、自分こそが実在であると自惚れ、勝手に一人で錯乱した結果だ。
根本的な存在疑念。この苦しみが否定されるにはエゴは自分の価値や意味を立証し、自分の存在を肯定できるようにならなければならない。
そのために欲望が生まれる。欲望自体が波だ。この波が人に偽りの存在感覚を与える。
人の世における幸福は多くの場合、単なる自惚れの高揚に過ぎない。勿論、サットヴァ・純粋性にある幸福は違う。しかし多くの場合、やはり現代社会における幸福は単なる自惚れに過ぎない。
それは自分の内にある根本的な苦しみを押し退け、他に押し付ける働きにある。それ故、罪となる。反動の波が外的にも内的にも生まれ、その反動の波にやがて当人が呑まれる。
幸福という波に呑まれ高ぶっていた個人は、今度は不幸という波に呑まれ落胆することになる。
この過剰なアップダウンが抑止される必要がある。自然な幸福を望むのであれば。確かな存在を自認したいのであれば。
私達のエゴは感情の波を自己であると錯覚する。しかし波は現れては消えてゆく。エゴはそこに確かな存在性がないことを見て、不安になる。
その存在苦を否認するために幸福が必要となる。それ故、その幸福は常に他に依存する形態にある。
幸福が失われた時に苦しむのは隠されていた苦しみが顕になったからだ。苦しみは常にあった。ただ目を背けていられただけだ。
この存在苦は当人がきちんと理解するまで永遠に続く。隠せたら幸せになり、隠すための対象が失われたら苦しみが顕になり…永遠に繰り返す。
しかしこの根本的な苦しみは単なる誤解の産物に過ぎない。きちんと個人が当人の存在に向き合えば、存在苦など初めから存在していなかったことが理解される。
そうして初めて人は本当の意味で自分の存在に対し安心を感じられる。
個人は心の波、その感情を自分自身と混同する。しかし本当はその波を生む海こそが当人の存在だ。
水面が静まった時に反映する太陽の光は神だ。静まった海がアートマンで太陽がブラフマンだ。そしてひとたび水面が静まればその光こそが自分の本性であることがわかる。アートマンはブラフマンであると言われるのはそのためだ。
そうなれば人と神という二元性は本質的に一つの存在として理解される。
海とは私達個人の心でもあるが、全体の心でもある。全体の観点で見るならば波の一つ一つが私達個人だ。
その一人一人の心がまた一つの海でもあり、その海に立ち現れる波が知覚、思考、感情などだ。
何にせよ波はそれ自体に独立した存在性を有してはいない。存在するのは海だ。個人が波に着目する限り、海は見落とされる。それだけだ。
全体についてはさておき、個人が平安を望むならば過剰な波を静める必要がある。自ら波を高ぶらせていては水面は激しく揺れ続ける。
静かにある。
しかし感情を感情で静めようとしても心が静まることはない。心のざわめきに対し「うるさい!静まれ!」と騒ぐなら本末転倒だ。
既にその当人が騒いでいるのだから、望んでいる事とやっている事が一致していない。それは興奮に対する執着が理解されるまで克服されない。
それは水面の波が気に喰わず、その波を破壊しようとして手で水面をバッシャーン!とぶっ叩いているようなものだ。
水面をぶっ叩けば、強い波がそこから生まれる。水面は変わらず激しく揺らめき続ける。
平安を我が所有にせんとする欲望の情動で感情を静めようとすれば、当然そこにはざわめきに対する拒絶、否認、怒り、苛立ちも生まれよう。
その怒りが水面の波を破壊しようとするのだが、そもそも波というものは破壊できるものではない。
波というものは静めることはできても消し去ることはできない。初めから存在しないからだ。波は波自体に独立した存在を有していない。波は海なのだ。
波はあたかも存在するかのように見えるだけでそれ自体実質的に存在しているものではない。
それ故、波をムキになって消し去ろうとするのではなく、ただシンプルに静める必要がある。
心はそれ自身が「自分はこれだ」と考える(信じる)ものになる。
個人が波と同一化する限り、「ある波は自分に相応しく好ましい」、「また別のある波は自分に相応しくなく好ましくない」、となる。
この差別を元に自分の欲望に準じた形を心に強制しようとすれば、その働き自体が一つの波となる。それは内的にも外的にも必ず争いや苦行的努力を生み出すことになる。
そのような働きは欲望の自己イメージの追求としてはいいだろう。しかしスピリチュアルにおける善い心とは内的にも外的にも裁かないことだ。
人が自分の心を裁かないならば、心がどんなに騒ごうとも「うるさい!静まれ!」という怒りは起きない。
エゴは執着する対象を裁く。その裁きが快・不快を生み出し、波となり、エゴの存在感覚を強めてくれる。
しかし執着がなければ裁きもない。裁きがなければ快に対して快はなく、苦に対しても苦はない。全てはあっけらかんとあるがままだ。
そこには純粋な認識があり、認識は心に識別智として現れる。識別は差別せず、ただ識別する。その識別に従い、全ては統制される。
人がもしこの認識そのものを自己であると理解するならば、自身の心に現れる全ては無差別にただ見られる。
当人が自分を静観する者であると思いなしそれとしてあるならば、心はそのまま静観する者の性質を反映してゆく。
その性質が静観にあるため、心は自然と徐々に静まってゆく。自我が自我の力で静めるのではない。ただ自己の性質が反映されることによって静まる。
心と自己を同一化する限り人は本当の意味での静寂を理解しない。
静寂とはからっきし何の想いもない状態ではない。
集中系の瞑想をすれば確かに一時、心の活動を限りなく停止に近い状態に持ってゆくことはできる。その時、個人は至福を体験するだろう。
しかしそれは状態だ。状態に依存した静寂はそれ自体確かに善い状態ではあるが、状態であるが故に無常性を有してもいる。それが無常であるから、いずれその静寂は大なり小なり喧騒に変わる。
この時、静寂に執着するエゴは内的な喧騒や外的な喧騒に苛立つことになるだろう。苛立つなら静寂はない。
本質的な静寂とはうわべのものではない。人が静寂を理解するならばその当人はもはや内的な喧騒にも外的な喧騒にも掻き乱されることはなくなる。
それらの現れが本性上、空であると知るならば人は喧騒の中にあっても本質的な静寂を失うことはない。
映画のスクリーンに複数の怪物が現れても人は正気を失いはしない。それが単一の光源から映写された一つの光からなる虚像であると知っているからだ。
にもかかわらず人はその単一の光に複数の姿形を見ることができる。そこには意味があり、流れがある。しかし映像自体は単なる光の投影だ。その中に姿形や意味や物語の流れがあるわけではない。
心もまたそれと同じだ。私達はそこに姿形を見る、意味を見る、物語の流れを見る。しかしそれらはただ想いに過ぎない。
その想いをよく見てみれば実体はない。実体があるのは想いの方ではなく、自己の方だ。
現れの背景が静寂なのであり、現れ自体は大なり小なりそれ自体に動きを持っている。それ故、現れ自体が常に静寂であることはない。それが自然な姿だ。
それを受容できるならば現れ自体は問題にはならない。本質的な静寂への理解や信があれば、人は荒波を航海できるだろう。
現れの問題というものは常にうわべのものに過ぎない。ひとたび映画の上映が終わればスクリーンには何一つ残らない。それと同じく人生における如何なる問題も永続するものではない。
ただ私達は生きる以上、その現れに対して個人が置かれた境遇に従い対応はしなければならない。それだけだ。
本当にしなければならないことはただ一つ、自己を悟ることのみだ。私達が自分の心に正しく向き合えればそれで十分だ。仮に正しく向き合えなくとも、それはそれでいい。
ただもし個人が平安を望むのであれば、心にはきちんと正しく向き合う必要がある。エゴ意識をただそのまま放置しておけばそれは際限なく苦しみ続けるだけだ。
それにうんざりしたならば心を静める必要がある。ただ心を見る時、ただそれに気づいているだけの時、そこには認識がある。
その純粋な認識に留まることが心を自ずと静める。実際には留まるも何もどこを見てもその認識以外には何もありはしないし、他の場所や他の時や他の状態があるわけでもない。
ただ個我は心と自己を混同しているが故に、その混乱は正されなければならない。どうすればいいのか?方法は沢山ある。皆が好きな道をゆけばいい。
最もシンプル、最も直接的、最も容易、最も力強いのは「ただそれとしてある」ということだ。最終的には全ての道がそこに向かうことにもなる。その他の全てはその補助に過ぎない。
あまりに我が苛烈な次元にある者は苛烈な努力をしない限り満足できないかもしれない。それはそれでいい。
しかしそういう自我が所有する自我が積み重ねた自我の努力、というものは結果的に自己イメージの増強にしかならない。
それでも当人がそうしなければ静かにならないならそうするしかない。いずれその無益な努力の中で個人は徐々に理解してゆくだろう。
ただそういう苛烈な苦行的努力をするより、もっと自然な働きに順応してゆくやり方の方が無理がなくていい。
もし人があっけらかんとあるがままにある宇宙の全ての中にポツンと存在するならば、それが自然だ。
その中で人は生きてゆき、いずれ死ぬだろう。それだけだ。この「それだけ」を虚しさに解釈するのは欲望だ。自分で虚しさを作り出しておいてから自分でそれを否定するために戦う…これは自然ではない。
それは無意味な苦行なのだ。