拒絶の真意 | ぽっぽのブログ

ぽっぽのブログ

綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

(続き)

私達のエゴ意識はその虚構を維持するために肯定と否定を必要としている。

「一つを嫌い、一つを好むことは心の病だ」

~信心銘~


「肯定や否定に心を乱されてはならない」

~アシュターヴァクラ・ギーター~


エゴ意識はそれ自身を維持するために他に依存する。その他に対し好嫌の情動を生み出し付託することにより、自を浮き彫りにする。自身の心の中で。


エゴはその情動が激しければ激しいほど「自分の存在感覚」もまた強まってゆく。エゴとしては自分の存在感覚が強まれば、情動自体は何でもいいのである。


それ故にエゴは頭では幸福を望んでいるつもりでも実際には全力で苦しみを望んでしまう。苦しみは自分の存在感覚を効率よく強めてくれるからだ。


そしてその苦しみは快楽と表裏一体だ。特定の対象を差別意識で激しく愛する時、エゴは幸福だ。快楽がそこにあるからだ。(勿論これは虚偽の愛でしかない。虚偽であるから永続しない。その終焉と共にその快楽は苦痛に変わる)


その特定の対象を愛する差別基準がまた同時に別の特定の対象を憎みもする。それらを生み出すものは一つの差別基準だ。その一つの差別基準が相容れない断裂・分断を作る。


その差別意識そのものがエゴそのものであるとも言える。人はそこに自分のパーソナリティ、アイデンティティーを感じるからだ。そしてありもしない分断を作り出すことは真実に反する。それは罪となる。真実に反するが故に内的な不正と言える。


エゴは自身の特別性=分離性の感覚を欲すが故に自分で自分に対し自分を定義付けるための色々な条件を作り出す。


その条件を満たせている時は自分らしく(自己イメージと現実の誤差が少なく自惚れの喜びが生まれる)、その条件を満たせていない時は自分らしくない(自己イメージと現実が一致せず自己卑下の苦痛が生まれる)…という感覚を作り出す。この一見相反する二つの感覚(快・苦)は同じ一つの欲望に属する。この二つは互いに互いの感覚を維持し合っている。


その自己イメージは虚偽の自分でありそれ自体が欲望でしかない。自分らしくある・自分らしくあれない…前者は快楽、後者は苦痛。


その条件は存在を限定するものである。存在をエゴが我が物としてその想像の中で盗むと普遍であった存在性は見せかけ上の限定を受けることになる。この限定の感覚自体がエゴの感覚となる。それ故にエゴは自ら限定を望む。自ら自分を束縛する。しかしそれが真実の自己ではないことに気づいてもいる。それ故にそこには疑念や苦しみがある。


だからこそ自分らしさを追求したり、理想の自分を追求するのだがそれは想像の中にしか存在していないが故にいくら理想(欲望)を満たそうとも完全な自己実現には永遠になりえない。


現れの全ては無常である。全ては変化する。必然的に自己イメージを維持するために必要とされる依存対象も変化する。それ故、自己イメージそのものも変化する。常に全ては一瞬も留まらず変化する。エゴはそこに本能的な不安や恐れを感じている。


微細な無常性以前に、エゴが勝手に自分に押し付ける自分らしさを全ての状況、全ての時と場所において再現することは不可能である。ここにエゴは不満、苦しみを感じる。自己イメージを満たせても満たせなくてもどちらにせよそれは苦しみに終わる。


自分らしさという概念自体が自分らしくないものという対極なしには維持できない性質にある。それ故に自分らしさに固執するには自分らしくないものにも固執する必要がある。実際にエゴはそうする。


前者の固執は愛(快楽、希求)という形で現れ、後者の固執は憎(苦痛、拒絶)という形で現れる。エゴによるエゴの肯定・否定、どちらも同じ一つの固執から生まれる。自分というエゴへの固執から。


多くの場合、エゴは自分が自分の憎む対象にどれほど固執しているかに気づいていない。認められない。自分が自分の憎む対象をどれほど強く求めているかを。厳密には怒りや憎しみという情動自体に固執しているのだが、その情動を付託する対象が必要なのだ。


それ故に意識内において実際に心はその対象を生み出す。その全てが自分というエゴ意識を維持するために不可欠な働きだ。しかしそれは誤解の産物にすぎない。単なる妄想の産物にすぎない。幻覚にすぎない。ロープを蛇と見間違えるように。

「僕らしくなくても僕は僕なんだ。君らしくなくても君は君なんだ」

~甲本ヒロト(the high-lows "no.1")~


人は何かを拒絶する時、その拒絶を通して自己イメージを擁護する。何かを愛する時も同様。自己イメージを擁護するには一つの欲望(エゴ)から生まれるその二つの働きが必要となる。


人はある特定の対象を見た時、負の感覚が生まれる。その負の感覚は他ならぬ自分自身の心から生まれている。


外界の対象が自分の心に入り込み、負の感覚を植え付けてからまた外界へと出てゆく…という体験はエゴに認められていない。何故ならエゴにとってその心は自分の心であり、それは皮膚を隔てた内外という境界の内側にあるものだから。


その心は内側にあり、それが物資的な外界と同じ次元にはないが故に外と内が物質的・精神的という壁(違い)をこえて直接交わるということは考えられない。少なくともエゴはそう定義している。

(※究極のリアリティーにおいては内も外もないが、エゴはそれを通常理解していない。誤った現実観を現実と混同した状態にある)


以上のことを考慮すると、その負の感覚の元になっているもの(原因)は自分自身の心の内にあることが理解される。実体験から見てもそれは明白である。しかしエゴは自分の心から生まれ実際に自分の心の内にあるその負の感覚の原因を対象に転嫁してしまう。「これのせいで嫌な気分になった」という具合に。


その時、エゴは第一の拒絶感であるその負の感覚に対してさらに拒絶を上塗りする。実際にエゴはその対象を何かしらの形で排除しようとする。否定の力で排除を強要しようとするが故に受容が不可能となる。


しかしその負の感覚の根本的な要因は他ならぬ自身の心の内にある。根本が正されないままであるが故に、その負の感覚はまた別の対象を目撃した時に再び現れることになる。

「隠されたものは必ず顕になる」

~キリスト~


怒りや憎しみ、あるいは蔑みなどの拒絶作用は「私はその対象とは違う」という自分の特別性・特異性を自我自身に顕示している。識別ではなく差別として。実際には対象と主体は同じ一つの心の中の観念にすぎない。本質的に対象と主体は同じである。それ故、対象に向けた想いはそのまま自分の内から現れ自分が味わうことになる。その想いは自身に向かっているから。


何かに怒りを向ける時、その怒りは自分自身に認識されている。つまりその怒り(不快感)は自分に向かってきている。実際の体験としても何かに対して怒りを感じる時、その怒りは自分を苛立たせ苦しめている。心においては主体と対象はその本質が分離していないからである。


悪を憎み、不正に怒る時、その負の感覚は「自分は悪ではない。正義である」という自己イメージを満たしてくれる。「自分は悪ではない。正義である」というエゴのアイデンティティー感覚を得るには必ず悪や不正が必要になる。


「自分は悪ではない。正義である」というエゴの自負を持っている人はその自己イメージを立証したいという欲望がある。そのために悪を求めている。実際、悪への敵対に固執する。

「悪に手向かってはなりません」

~キリスト~


エゴは基本的に常に自分の存在を確認したがっている。不安なのだ。それが虚偽の自分にすぎないことを本当は知っているからこそ、エゴは自分の存在に不信や不安を感じる。


エゴは思った通りの自分(自己イメージ)を立証できる機会が欲しいのだ。その機会はカルマの力により実際に個人の人生で再現されることになる。それを引き寄せの法則の一環として捉えてもいい。


そしてエゴは欲望通りの情動を得る。何かに激しく感動し涙する時、そこにある種の解放感を感じたことはないだろうか?何かに怒り、感情が爆発する時、そこにある種のパワフルさを感じたことはないだろうか?


それは心に潜伏した情動感覚が表層意識にのぼりその存在が自分自身に認識されたことによる興奮のようなものだ。暗い土の中の種子が地表を突き破り光の下に出たようなものだ。


それは欲望にすぎない。欲望は虚偽を本質とするが故にその解放感もパワフルな感覚も永続しない。減衰し、消える。するとまたあの感覚を味わいたいとエゴは欲し、その欲望が種子となる。縁の条件が整った時にそのカルマの種子は発芽する。


強い情動が生まれる時、それはあたかも噴き出すような勢いにある。この情動の強さは欲望の度合いによる。永劫の過去からその情動の種子は発芽の瞬間を待っていた。だから強い情動は生まれた瞬間に噴き出すような強い力を生む。


そして個人はその情動(欲望)の奴隷となる。盲目的に情動に動かされる。人を行為に突き動かすカルマ・グナの力だ。そして理解されなかったカルマは永遠に繰り返される。当人が固執する印象・感覚はあらゆる出来事を通して当人の心に現れ続ける。永遠に。


印象が出来事を生むのか、出来事が印象を生むのかについては「種が先か木が先か、卵が先か鳥が先か」という話と同じで人智では知り得ない。シンプルに定義するならその二つは同時に生まれる。


その因子がカルマだ。カルマには善のカルマ、悪のカルマがある。しかしカルマの修正にはキリがなく(個人がカルマを修正する度にその意図自体が新たなカルマを生むが故)、無意味である。善を意識するだけで十分でありそれ以上カルマの概念に囚われるべきではない。


重要なのはカルマそのものではなくカルマを持つとされるその個人だ。そのエゴ意識こそが第一の普遍的印象だ。如何なる感覚・印象も必ず「自分」という第一の感覚・印象に対して現れる。エゴとしての「私」という感覚、その印象こそが全ての根でありその根を抜き去るならば自動的に全てのカルマは失効する。木を根から抜き去る時、枝や葉が生起する余地も消え去るように。


話を負の感覚に戻そう。人はあらゆる対象を見る。そしてあらゆる印象を得る。そして印象を対象に付託し、無知は存在と印象を混同する。


人は特定の何かを憎み拒絶する。それは心による心自身への拒絶だ。自分で自分を否定し、自分で自分を攻撃し、傷つけ、苦しめているということだ。この欲望としての拒・求が本当の悪である。


外界に見てとれる悪は二次的なものにすぎず、その悪を目撃する個人の内的な悪の反映にすぎない。それ故、内面を正さない限り悪が本当の意味で解決されることはない。


当然、自分の内面の悪を正したならばそれで世界から悪が消え去るわけではない。しかし消え去らないわけでもない。ジニャーナ(智)もしくは空性やアートマンの見地から世界の現れをブラフマン(神)として見た場合、悪は初めから全く存在せず、世界の現れを通常の個人の視点から見た場合、悪は常にあり続ける。


悪を理解するならばそれが幻影であることがわかる。世の善と悪は現実ではないことがわかる。本当の現実は善悪にはなく自己にあり、その自己こそが望まれているものである。その時、個人は人の世とは関係のない世界を個人を通して生き、個人を通して表現できる。


クリスチャンの「御国が訪れますように。御心が天で行われるようにこの地でも行われますように」という祈りはそういうことだ。人の心がそのようにあれば世界はそのようになるというシンプルな話だ。そして一人の個人がそのように生きる時、世界は人間一人分そのようになり、その個人はその心を通しそれに応じた影響を世界に与える。


それ以外に世界の根本を変える力はない。信じようが信じまいが関係なくその現実が変わることはないのである。


~続く~