革命は既に | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

(前回からの続き)

私達は時に虚しい身勝手な希望・期待に欲望を託し「こうであったら本当は幸せだったのに…」と考えたりする。


何かに損をしたと思われる時、「あっちにしておけば得だったかも…」といった具合に。体験自体は一つの学習であるから損も得もないが、私達のエゴは通常そこに損得を定義し大なり小なりよからぬ情動を付託する。


その情動の誘惑は魅力的である。その情動への希求が私達の正気を狂乱に変えてしまう。


「こうであったら…」、「もし…」それがちょっとした想像のお遊び、ロマンスの遊戯であるならば実に素晴らしく楽しいことだ。私はロマンを愛す。


しかしながら仮にそれが深刻な絶望や虚脱や虚無や、あるいはざわめく怒りや憤り、深刻な不安などを生み出すものであるならば「その過剰な情動自体は無意味なもの」だ(勿論、心の推測の働き自体には何の問題もない)。私達はそのような苦しみを本来的には望んでいないからだ。私達の本当の願いはただ幸福にある。


頭の中でいくら「こうであったら。こうあるべきなのに」と想像してみても現実の方では既に現実はあるようにある。その現実を生きるより他に現実はない。生きているにも関わらず死んだかのように心が振る舞う時、それは苦しみとなる。


エゴは通常、この時に仏陀が戒めた両極端な道を行ってしまう。つまり、虚無感に飲まれるがままに消沈するか、もしくは消沈に対して怒りの激昂でもって張り合い、エゴを過剰に張り上げるか。仏陀は両極を避けよ、と簡潔に説いた。


私は若い頃、様々な怒りを大事に所有していた。社会そのものに対しても抵抗感や怒りを持っていた。それは自分が自分であるために不可欠な要素だった。正義や幸福のために不可欠だったのではない。エゴの自己イメージのために不可欠だっただけだ。


それ故、その苦しみに固執した。それが自分のアイデンティティーの側面の一つだったのだ。虚偽の自分の虚偽のアイデンティティーだ。


しかしその怒りが私を歴史に名を残す革命家にしたわけでもない。実際にその怒りが社会を変えたわけですらない。故に単なる癇癪でしかない。


その怒りは私を惨めにしただけだ。惨めであるから虚しい、その虚しさを否定するために怒る。しかしそれで世界が、社会が善くなるわけではない。社会なんて大それた話以前に自分の気分が悪くなるだけである。それ故、それは惨めだ。


自分の心の統治という政治さえろくにできない者が社会の統治という政治について偉そうに怒れる資格などはない。実にそれは虚しい妄想であった。高尚な正義の憤りなどではない、惨めなエゴ意識の単なる苦しみにすぎなかった。その苦しみの責任を押し付けていただけだ。


誰のせいか?他者のせいではない。政治のせいではない。社会のせいではない。時代のせいではない。運命のせいではない。神のせいではない。内なるサタン、欲望のせいでしかない。つまりは欲望の奴隷に甘んじる自分の責任である。


確かにいつの時代でも社会は公正であるべきだった。欲を言うなら誰しもが当然そう思うであろう。しかし人類有史始まって以来、人の世が公正であったことなどない。社会は不正であって当然だったのだ。それが事実だ。何故ならば私達一人一人の心が内的な真実に対して常に不正を働き続けているからだ。


その現実を受容する時、無益な怒りは消える。そして受容して初めて改善への着手が可能となる。


人間は社会における色々なシステムを考案してきた。王政やら何やら、あるいは資本主義やら共産主義やら。

「結局はエサの分配の話にすぎない」

~澤木興道老師~


私はその類いのシステムについてさっぱり何の知識もないが、人類が新しい良い世界とやらのために何やらごちゃごちゃやり続けていることは知っている。時に殺し合いながら。


そしてその試みが実に紀元前は太古の昔からずっとバトンタッチを繰り返しながら続いていることも知っている。あらゆる政治システム、あらゆる哲学思想、あらゆる自己啓発等々。


にもかかわらず、依然として人類の根本的な問題はいまだに解決の兆しさえ見せていない。その試み自体に何か根本的な欠陥があることを疑うべきではないだろうか。


個人にせよ社会全体にせよ人類全体にせよ、何のシステムを採用しようが根本的には何も変わりはしない。そのシステムが適応され実際に運用する私達一人一人、人類全体の精神性が変わらない限り何も変わりはしない。少なくとも私達が真に望むような姿にはならない。変わるのは常に一過性のうわべのみ。


もし仮に私達人類が全員、内なる純粋精神(神や仏と言ってもいい)を自覚し、あるいはそれを敬い、あるいはそれを信じ、その本質に従って生きるならば何のシステムがどのように社会に適応されても私達はいとも簡単にパラダイスを創造できるだろう。

「皆が隣人を救うなら救済の無い人は存在しない」

~ブルース・リー~


しかしもし私達一人一人、人類全体の意識の焦点がエゴ意識にのみあるならば、その欲望は何がどうなろうと内的な飢餓感を満たすことはない。

「金銀財宝を山のように積もうとも一人の人間を完全に満たすことはない」

~仏陀~


社会、政治、といった壮大で難しい話以前に単純に心の問題だ。どのみち人の心こそが社会を構築するのだ。その心についての無知がある限り、政治もまたその無知に従うことだろう。全てがその無知に従うことだろう。そしてその結果は現に既に出ている。


私達のエゴは自分が悪と断定するものに対して理解を拒む。その悪とやらを拒絶し、否定し、抹殺せねばならないと考える。理解などもっての他であると。理解してはいけないとさえ考えている。


事実は逆だ。理解しない限りそれが正されることもないのだ。例えばあなたが何かしらの手術を受けるとしよう。その時に自分の体にある病について全くなんの理解(知識)もない者にメスを託せるだろうか?当然、人体とその病理に理解のある医者に我が身を託すだろう。


医者は人体および病理について理解がある。知識がある。それ故にどうすれば治療できるのかも理解している。そうではないだろうか?


この世の不正や悪とやらについても同じだ。理解しなければならない。理解するには受容しなければならない。現実に既に悪は存在するのだから。その現実を短絡的に拒絶・否定しただけでは現実は変わらない。事実、紀元前から変わっていないのだ。


私達は心を開き、受け入れ、それをきちんと理解しなければならない。恐れることはない。究極的には悪は宇宙に存在しないからだ。究極的には。それが明らかになれば善を創造・表現してゆけるだろう。


エゴの妄想の内にしか悪は存在しない。本当の悪とは理解を自分から拒むことなのだ。その拒絶とはテリトリーを守る自衛本能に似ている。


人は自分の自己イメージに反するものを目撃した時にその対象を憎む。恐怖や怒りや卑下や蔑みや…色々だが自己イメージを脅かすものに対して拒絶と否定を生み出す。


それはエゴ意識の「架空の境界線」を守るためのメカニズムだ。エゴ意識は意識内の現れを「意識の元で一体である」とは見なさない。エゴ意識は純粋な識別を差別に変え、排他的な働きにある。その排他的な働きはあらゆる次元に強力に張り巡らされた有刺鉄線のようなものだ。


有刺鉄線はトゲトゲがついているから痛い。その苦しみが張り巡らされている。個人はその存在自体が苦しみにある。意識を自と他に別けて「私とは異なるもの」を排斥する力が皮膚の内外に付託され、個人は見かけ上の個人的存在の感覚を心に描き出す。その排斥の力は皮膚を境に内外に等しく向いている。


それ故、必然的に自分自身にもその排斥の力が向いている。それはある種の存在苦ともいえる内的な根本的苦しみだ。このあらゆる排斥、分断はあらゆる次元に及ぶが、シンプルに見るならエゴ意識というものにその中心的要因がある。


それは無知、無明、原罪、不信仰など呼び方は様々だが、身近な言葉を用いるならば単純な誤解にすぎない。しかし誤解の力を侮ってはいけない。誤解一つで私達の心は幸福を味わいもすれば不幸を味わいもする。誰しもそんな経験はあるはずだ。


うわー幸せ!と浮かれていたら後でそれが単なる思い違いにすぎなかったことを知りガッカリする。またはその逆であれ。事実自体は思い込みに関係なく初めから事実である。が、事実に対する無知に起因する思い込みは事実に関係なく勝手に喜んだり悲しんだりする。


日常のちょっとした思い違い一つでも私達の心は浮き沈みを描き出す。ならば、存在そのもの、宇宙そのものに対する誤解の持つ力はそれの比ではないだろう。エゴ意識は常に誤解し続ける。それ(無知)がエゴの本性であるからだ。この誤解の存在に個人が気づく時それは全てを覆す。


その誤解に気づけるものは個人の内にある非個人性、アートマンの反映、気づきだけだからだ。それを自覚する時、自我は自己ではなくなり、自己が自らになり、自己知識を元にした識別知が生まれる。


その時、人間が語る善と悪は同じ一つの欲望の表裏としてあるがままに理解される。それ自体が一つの悪であり、本当の善自体は自由にあることが理解される。


確かに悪や不正などは私達の望むものではない。にもかかわらずそれは現にある。実際の行いは全力でそれを望んでいるからだ。勿論それは私達の本当の願いではない。しかしエゴ意識は欲望を強く望む。だからその働きは悪魔の誘惑と比喩される。


そしてその欲望の姿が人の心を通して顕現の宇宙に現される。メカニズムとしてはそれだけのことだ。


私達は欲望の光の部分だけを見ていたい。しかしそれは無理な話だ。そこには必ず闇も付随する。ただそれだけなのだ。私達が欲望ではなく真理を望むならば、それは現されるだろう。それでも勿論、現れの表面上には必ず欲望はある。生き物は存在するだけで欲望を伴う。


しかしそれはバランスの問題でしかない。私達のエゴ意識はあらゆる全てが過剰なのだ。それ故に光と闇が互いに強烈に張り合う。しかし空における昼と夜が別段互いに争ってはいないように全ての二元性はバランスが善くあるならばそれがそのまま一つの善なのだ。


光と闇もまたそれをわざわざ心の中で闘争させる必要はない。本当のところでは光しか存在しないからだ。イメージとしての光と闇はどちらも一つのイメージの両極にすぎない。


その認識対象としての光と闇が意識内に浮上し、認識されるにはそれが知によって照らされなければ顕にはならない。その知、気づきこそが唯一無二の光であり、つまりはあなたの存在だ。


その存在に如何なる差別があるだろうか。識別はその存在に気づいた心の中に反映としてある。しかし存在そのものには何もない。それ以外に存在を有するものがないからだ。全てが本質的にはそれなのだ。


私達は一人一人がただ存在するだけで革命だ。あなたの視野から見るならばあなた自身が唯一無二の革命だ。あなたは存在しているからだ。「存在する」…これが如何に意味不明でブッ飛んだことであるかは筆舌し難い。


あなたがこの世に生を受けた時、あるいはむしろあなたの意識内に自分・他者・世界が現れた時、既に宇宙規模の革命は起きたのだ。

「かれ(ブラフマン、神)はまさにこの頭頂を破って、この門から(個人の中にアートマンとして)入った」

~ウパニシャッド~


そしてあなたが自身の存在に関する誤解を解消してゆくと宇宙の全ては存在にあることが理解されるだろう。その存在自体は一つであり、対象である二が無いが故に一とも言えず、ただ圧倒的に自ら自ずと存在する何かとしか言えない何か。聖典はそれを「汝はそれである」と言う。


気づき、意識を伴わぬあなたは存在しない。その意識、それはあなたにとっての自己以外の何者でもない。そして全てはその意識内にある。あなたはそれを自覚している。存在は宇宙における革命なのだ。