自己疑念 4 終 | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

自己疑念について色々気ままに書いて来たのだが結局の所、心を問答無用でビシッと静めてしまえばそれだけで全ては片付く。それだけの話でしかない。

生死、輪廻、神々、悪魔、天使、あらゆる幸福、あらゆる苦しみ、あらゆる思い出、あらゆる美しさ、あらゆる醜さ、あらゆる天界、あらゆる地獄…全次元の全宇宙の全歴史、起こった事、起こらなかった事、起こるであろう事、起こらないであろう事…思いつく限りのその全てが心をビシッと静めたら一秒で片付く。

何故なら思いが無い時には上記の全てもまた"無い"からだ。

はいはい、すごいすごい、ほいな、さいなら…と言った程度で全て片付く。

勿論、何か好ましくない事が起きるならば瞬間的に反射として動揺が必ず起こるのは間違いない。それがマインドの性質だからだ。それは仏陀でもキリストでも誰でも同じだ。

ヨシュアさんは磔の前には普通に恐れにおののいていたし、シッダールタさんは聡明な弟子が死んだ時には普通に悲しんだ。内的な瞬間の反射反応は程度の差こそあれ誰でも基本的には同じなのだ。

しかし心の動揺に飲まれなければ…心の正体を冷静に自覚しながら、想念との同一化から離れているならば…自己は常に自由なのだ。

如何なるものも無常だ。それ故に心・想念もまた無常だ。無常であるにも関わらずそれを恒常なもの、継続性を伴っているものと思い込む事が誤解を生み出す。それは欲望だ。継続性があって欲しいという欲望だ。自我にとっては継続性こそが存在感覚であり、心(=自我)が無常なものであるとは認めたくないのだ。

苦しみも悲しみも掴み取ろうとしなければ自ずと消えてゆく。無常だからだ。欲望(執着)がそこに偽りの継続性を与える。しかし偽りは偽りに過ぎないのだ。ただ心の想像が、その思い込みだけが心の中でさも継続性を伴って現れているかの様に見えるだけだ。心自身にとって。

それが想像に過ぎないと知れば、その継続性は無効となり無常性が顕になる。無常性が顕になるとその無常性に気づいてある恒常なる一者もまた顕になる。

その一者だけが実在であり、"それ"はあなたそのものであり、それが全てだ。

本当に"それだけ"の話でしかない。

が、それだけの話をそれだけでは済ましてくれないのが自我でもある。だから自我というものは中々ただごとではない。本当はそんな大事じゃないのだが…自我としては自身の存在をそうやって盛り上げ続けて騒ぎ続けていたいわけなのだ。

そうじゃなきゃ"張り合い"が無いからだ。自分とその世界が"それだけ"のもんであってたまるか!!と意気がってるのが自我だからだ。ドラマチックな幸福にドラマチックな悲劇…魅力的だ。それを寸劇の様に楽しみ、まるで役者の様に演じるだけならば問題は特にない。

しかし自我はそれを楽しめない。すっかり飲まれてしまう。そして天国と地獄を繰り返し、遂には疲弊してゆく。その苦しみに耐え兼ね、幸福を求めるが…やはりその幸福は苦しみに変転する。そしてやはり最後は死ぬ。

そんなジレンマの中を生きていれば自我が自己疑念にかられるのは自然な事だ。

自己疑念、自分の存在についての不安や恐れ、孤独感、虚無感…ありとあらゆる悲しみや苦しみ。言い方は色々だが全ては"満たされていない"というシンプルな想念に集約される。

それは誤解なのだ。知識は無知を取り除くと言われる。蛇だと思っていたものがロープであると判明すれば、一つの思い込みから無数に派生し輪廻してゆく想念も抑止される。

心の全ての反応は"心のもの"であって"私のものではない"と観じ、心を"我ならざるもの"として見れば如何なる動揺も自己を動揺させる事はできない。動揺自体は大して問題ではない。その動揺に飲まれてしまう時に動揺が問題になり、動揺に対し拒絶感を抱く事が更に動揺を拡大させてしまう。

もし幸福を実現したいのならば、心が如何に動揺しようと静かに在る事に努めるのが最善だ。

自己疑念は本来、我々の本質には相応しくないものだ。疑念の囁きは至るところに溢れている。特に現代社会では。優劣による人間の冷酷な選別…まともな神経をしていたらその波に動揺しないではいられない。人の世はあまりに冷徹すぎるからだ。その優劣の選別とは文字通り自分のアイデンティティーがかかってくる勢いの深刻な問題だからだ。

優劣、人間らしさ、人間の定義、人間の条件…それはただの嘘だ。

生まれたばかりの頃、人は自身の心がその毒牙に犯されていなかった。

生まれたばかりの頃、人は宇宙の理法から大人ほどは外れていなかった。

人間の小難しい争いの善悪ではなく、もっと普通の一つの善性があった。

自身が何者かについての疑念が薄く、ただあっけらかんと存在しそのまま生きていた。

本来はそのまま成長してゆけば良かった。子供の良い面を伸ばし、悪い面は抑制して成長してゆけば良かった。

世界の現状では逆だ。子供の良い面は抑圧され、悪い面が伸ばされる。だから現代人の大人はある意味では子供より幼稚だ。悪い意味で子供のままだ。

そして心の純粋性はすっかりと錆び付き、もはや魂・アートマンの光を自覚する事もできなくなった。それが全ての転落だ。

しかし人の本質自体は自我の状態に左右される事なく、不変だ。肉体は変わる、心も変わる。しかし本質は不変だ。

その自分こそが求められし自分だ。自らは常にあるがままに自らだ。それ故、本当は求める必要はない。しかし心が幸せ(本当の自分)を失った、見失ったと思い込む限りはその誤解を晴らす為に求める必要がある。

道は色々沢山あるが、全ては一つに通じている。その一つを主と呼ぼうが仏と呼ぼうがアッラーでもシヴァでも同じだ。同じなのだ。

世間で言う所の宗教やスピリチュアルなんてうんざりだ。必要なのはおまじないじゃないし、何かよくわからん神々や天使や悪魔のヒエラルキーの話じゃない。どの神が正しいとか真実だとか、上だとか下だとかそんな議論は無益だ。きりの無い理論とその方法や、自我の手に余るコントロール不能な宇宙の法則にまつわる話も必要ではない。

必要なのはシンプルに幸福だ。

心は常に心自身の内容をそのまま被る。善き心は善き感覚を生み出し、悪しき心は悪しき感覚を生み出す。

善き心は善悪に囚われず、自由であり、その自由は幸福の為に働くから結果的に善となる。何故、自由は幸福の為に働くのかと言えば、単純に幸福と苦しみどちらがいいかなんてのは考えるまでもなく明白だからだ。幸福を選択するのがその本質なのだ。幸福自体がその本質だからだ。

悪しき心は善悪に囚われ、自他に善か悪を強要し、その抑圧は苦しみを生み出すから結果的に悪となる。その善悪はどちらも悪(苦しみ)に終わる。

確かに顕現の宇宙には善と悪がある。一なるものが善であり、二の無い所にわざわざ二を作り出し一なるものを分断する事が悪だ。

一なるものは人の世のお常識とやらで推し量れるものじゃない。推し量る必要もない。

世の善悪をわかってない子供の方が大人より人間的な心は平和であり差別意識も薄い。これはどういう事だろうか?キリストは「天の御国はこの様な者達(幼子)と共にある」と語った。

確かに子供には子供なりの残酷性などがあったりもするが、少なくとも大人に比べたらまだ深刻ではない。

人には一元の純粋性が確かにある。全ての善(幸福、自由、平和)はその自己にかかっている。自我の欲望を元に構築された知的な善悪ではなく、ハートの本能的な善として存在の特質として人に宿っている。

その光に気づかなくなったのは心の誤解(無知・原罪)が原因だ。原因を正せば結果も正される。

誰しもが心の奥底では思っているのだ。

"私"は素晴らしい存在であり、幸福が本来自然であり、生(死)は決して虚しいものではない…と。

その確信に反した生き方を自分から進んで生きる時、その確信は挫折し、苦しみとなる。疑念となる。

厳密に言えば確信自体は挫折していないのだ。だからこそ「本当の自分はもっと素晴らしい存在のはずなのに…」という苦しみが生まれる。確信自体は変わらずにあるからこそ疑念が止まない。

その確信を自我のものとして誤解する事が過ちなのだ。素晴らしいのは自己の存在であり、自我が描き出した自己イメージではないのだ。

確信自体は全ての人にある。内在している。神の欠片とも言える魂(アートマン)を伴わない存在など存在しないからだ。

その確信に従って生きるならば全ては正される。

ただ勇気と決意の問題だ。

社会や他者、あるいは自分が自分自身に強要してくる人間像、自分像という強烈な呪縛から決別する勇気があれば、全ては自由であり、開かれた静かな幸福に包まれているのだ。

その幸福は全く劇的ではない。心が幸せだと騒ぐような動揺した幸福ではない。静かなのだ。平安だ。だからこそ幸福であり、素晴らしいのだ。

自己疑念…それは奇妙なものだ。メビウスの輪の様だ。人は本来、自己疑念など必要としてはいない。

必要なのは、幸福、自由、平和だ。"それが最も私(自己)に相応しい。何故ならそれが私の自然な本質であるから"と、魂はそう告げているのだ。

その確信に基づいて生きる決意があるならば、そして自分に幸福と自由と平和を選択させる勇気があるならば、その心は自ずと答えにたどり着く。

真実から離れて存在できるものは何一つ無いからだ。心が真実を思うならば、求めるならば、その心は徐々に偽りから自由になってゆく。

必要なのは自分の存在について真剣になる事だけだ。

あなたはあなた自身の幸福を何よりも望んでいる。それは決して我が儘な事ではないのだ。幸福こそが俺やあなた、彼や彼女、全ての人の自然な姿なのだから。

その純粋な望みが自我の個人的な欲望の中に期待される時、その時それが我が儘となり軋轢を生むだけだ。

幸福への望みは欲望を超えた魂からの自然なあるがままのサインなのだ。それは望みではあるが欲望ではない。欲望ではなく純粋な存在の表現だ。

誰もが自分を表現したがっている。誰もが知っているからだ。

"私"は素晴らしい存在なのだ、と。

そこ(自己)に誤りは無い。

ただ自我(エゴ)に誤りがあるだけだ。それ故、エゴは誤った手段(欲望)で偽りの自分を表現しようとして…苦しみを表現してしまうのだ。偽りの自分をいくら表現してみようと満たされる事はないからだ。

そろそろ話を終わりにしよう。あなたが神を信じているとか信じてないとか、スピリチュアルが何だどうだとか、そんな話はどうでもいい。俺の知った事ではない。そんな事より俺はガチャピンやくまモンの中の人の方が気になる。

あなたは宇宙の一部であり、宇宙そのものでもあり、宇宙から完全に自由でもあり、神から離れてはいないし、神ならざる者ではないし、神に等しく豊潤な存在でもあり、神の特質が反映された神の子供でもある。

こんな事をいくら言おうが言葉自体は空虚だ。

しかしあなたの存在は決して空虚なものではないのだ。自己疑念などさっぱり断ち切り、喜ぶといい。理由なんか無くても喜べる自由があるのだから。存在する事は摩訶不思議であり、深淵な神秘だ。

それは喜ばしい事だ。自身の"存在"…その存在を自分が如何に深く愛しているかを見てみるといい。

愛は喜ばしいものだ。そうではないか?それがあなたの存在だ。あなたはあなたの存在を何よりも愛している存在なのだから。


つまりは…その存在は愛なのだ。