自己疑念 3 | ぽっぽのブログ

ぽっぽのブログ

綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

前記事で死について書いたが死というものは何も肉体の死だけに限った話ではない。死は至るところに溢れている。

好きな人と一緒に過ごす素敵な一時が終わる時…それも死だ。お気に入りの物が壊れたり無くなったりする時…それも死だ。そんな具合に死は沢山ある。何かが終わる時、それがその終わった物事の死だ。執着から得ていた快楽が終焉することは何であれ死(苦)のニュアンスを帯びている。

幸福な一時が終わる時、人はそこに一抹の寂しさや切なさを感じる。それ位ならば良いが執着の度合いが強ければそれに応じて苦しみもする。幸福の終焉(死)は同時に苦しみの始まり(誕生)でもある。誕生はめでたい事だとされているが望まれないものの誕生は不吉とされる。

人はあらゆる死を普遍的に恐れている。しかし同時に死を望み喜びもする。嫌な一時が終わる時…辛い仕事が終わる時…それもまた死なのだが人は通常この手の場合の死は恐れない。むしろ苦しみが死んだ事を喜び、喜びの誕生に高揚する。

生と死は表裏一体だ。何かが終わる時必ず何かが始まりもする。何かが始まる時必ず何かが終わりもする。実に不思議な事だ。実際の所、そこには生・死、始まり・終わりという明確な境界や区分はない。

ただ心がどう見てどう解釈するかによって、その心の中でその都度現実が名称に追従した解釈に応じて変わってゆくのだ。生を望む事は同時に死を望む事でもあり、死を拒絶する事は生を拒絶する事でもある。二つは不可分だ。死を否定していない人間は滅多にいない。誰もが死を忌まわしく思う。

それ故、心の奥ではその忌まわしい思いは生にも向けられている。嫌な出来事に出くわすとその負の思いが表層に上がる事になる。嫌な出来事が負の思いを生む訳ではない。ある出来事が差別意識を通して見られた時に、それをきっかけとして潜在的な負の思いが表に現れてきて、その嫌な思いを出来事に付託するのだ。生まれでる思いは必ず心の中の何かしらの因子に基づく。そして何であれ起きた事は自身の生の内容であり、一部だ。それ故、その生の内容(出来事)に負の思いを抱く事は自身の生を忌まわしく思う事と同義だ。人の心は自身の生に対する矛盾した肯定と否定、矛盾した愛と憎しみによって混沌としている。

生を忌まわしく思いながら生きる事は苦しみだ。それが酷くなれば"生きたいけど死にたい、死にたくないけど生きたくもない"という訳のわからん苦しみに突入する羽目になる。自分の経験から言ってそれは正に生き地獄だ。

生と死は一つだ。その一つとはあなたの存在だ。本来一なるものを二つ(生・死、自・他、等)に分ける時、そこには必ず苦しみが付随してくる。人間は二つのものを相容れないものとして対立させて考えるからだ。対立は無益な争いであり、無益な争いは苦しみだ。何故、対立が無益かというと対立するその二つは一つであるからだ。対立の無い所にわざわざ対立を持ち込む事は無益で無意味な事だ。

対極の片方を愛する事はそのままもう片方を否定する事になる。片方を否定しなければもう片方を愛する事はできない。この場合の愛とはつまり本当の意味での愛ではなく、単なる感情の"好き"でしかない。

「好き!」は快楽だ。「嫌い!」は苦痛だ。我々はその「好き!」という感覚に固執する。それが快楽だからだ。そしてその快楽を得るには、対極である「嫌い!」(苦痛)が必ず必要となる。必ずだ。それ故に人は「好き!」という快楽の強さに比例した「嫌い!」という苦痛にも等しく執着する。

二元性の対立概念は必ず対極同士が相互に依存する形を取る。それが理だ。神々でさえその理を変える事はできない。単純にそうでなければ存在できないからだ。

二つの対極がお互いに反駁し合う二元性は常にその様な性質を帯びている。それらの極と極は概念的に対極だ。対のセットになっている。光・闇、昼・夜、勝・敗、白・黒、善・悪、聖・俗、天使・悪魔、快楽・苦痛、幸福・不幸、好き・嫌い、高揚・落胆、身体の内側・身体の外側…見ようとするならばその思いに従って無限に見出だせるだろう。とにかく色々だ。

色々なのだが本質的に全ての二元性は一元(真実の自己)に依るものだ。その一元が理解されれば無益な反駁・過剰な摩擦は静まりバランスがもたらされる。一元が理解される時、二元性の観念は破綻する。どちらにせよ二元性は常に矛盾を孕んだものだから概念的には常に破綻している。

一元が理解されるに伴い二元性の対極である一元もまた破綻する。一元は真実を指し示すが、それ自体では二元の対極としての観念でしかないからだ。それら全ての話が単なる心の中の心の想念でしかないのだ。自我意識がブラックアウトすれば消え去る程度の観念的な話でしかない。

しかし自己は単なる観念・想念ではなく、実在の存在だ。それを知るならばきりの無い議論の中に真実を見出だそうとする欲望もついえる。きりの無い追求の中に幸福を見出だそうとする欲望もついえる。心は静かになる。安らぎに立ち返る。心を議論や疑念や追求に掻き乱す必要がなくなればそこには安穏がある。

対極同士の激しい闘争が静まれば平和であり、それ故に幸福だ。心が本当に望むもの(幸福、真実の自己)を実現しているならば、欲望の必要性が無く、欲望が無ければ動揺が無く、動揺が無ければ心は自己を映し出す。ちょうど汚れの無い鏡が光を綺麗に反映する様に。波紋の無い水面が綺麗に月を映し出す様に。

自己疑念の苦しみと自己実現の幸福もまた対極的なものだ。自信がない・自信がある。幸せ・不幸。我々に馴染みの深い二つの極の輪廻変転だ。「幸せだ!」「苦しい…」「最高!!」「最悪…」…現れては消え、また現れては消え、幸せも苦しみも共に宛にならないものだ。

宛にならないものは宛にしてはならないのだ。宛にならないものを宛にするならばその期待は裏切られるだろう。宛にならないものとは無常なものの事だ。無常なものは常に瞬間から瞬間へと変化し続ける。

0.1秒前のコップは今のコップとは全く別物だ。氷は1秒経過したら1秒分溶ける訳じゃない。氷は一貫して溶け続ける。みるみる内に様相が変わってゆく。冷凍庫に入れても原子レベルでは常に変化し続ける。地球も銀河も運航し続ける。全ての状態は常と呼びうる存在性を有していない。

万物は、万象は"これ"と指し示せる様な一貫した存在性を伴っていない。肉体も心もまた同じだ。

存在とは何だろうか?ある一定期間、継続した状態を自ずと保持して現れているものは存在と呼べるかもしれない。しかしそんなものは何処にも存在しない。全ては全ての次元、観点において変化し続ける。変化を知るには記憶が不可欠だ。現象の確証は記憶に依存する。記憶がある時には対比があり、対比は差異や変化に解釈される。差異を言語化し感情的に選り分ければ差異の識別は差別に変わる。

そして変化を感覚的な継続性や数値に変換すればそれが時間だ。時間は止まらない。何故なら知覚は止まらないからだ。知覚が止まる事はない。自我意識の知覚活動が停止すれば次は無意識が現れる。つまり五感の知覚が無い事が知覚される。そうでなければ無意識というものは存在できない。この場合の知覚の不在を知るのは気づきだ。知覚の不在もまた知覚の形態の一つなのだ。

そしてやがて無意識はまた意識に取って変わられる。その背後には一貫して継続して存在している何かがあるが、現れ自体は自我意識の自覚の有無に関わらず常に断続的だ。何一つ一瞬ですら継続しないにも関わらず、その背後には継続性の付託を可能にする何かがある。奇妙な事だ。

継続しているのは世界の現れ(言い換えると意識内の現れ)ではないのだ。厳密には時間が流れているわけでもない。不変、恒常の存在(意識の本質)を拠り所として自我意識が現れ、その自我の中の知覚がそれ自身を表面上であたかも継続しているかの様に見せる為に瞬間から瞬間へとあらゆる誕生と死を繰り返しているのだ。その全てが心意識の作用だ。

全ては現れると同時に消え去るし、消え去ると同時に現れてもいる。摩訶不思議だ。その全ては無常だ。無常なものに自分の存在とその幸福を預けてしまえば、それは苦しみになる。無常なものは消え去るからだ。消え去るものを幸福の宛にするならば、やはりその幸福もまた必ず消え去るだろう。それは苦しみだ。幸福が終わる事を幸福として受け取る者はいない。幸福が終わる事は苦しみだ。

肉体や心を「私だ。私のものだ」と思いなすならば、やはり"その私"は肉体と心と共に消え去るだろう。私は存在しているけど消滅する…そう考えるならば自分の存在に疑念も生まれよう。自分の存在を確認してその価値や意味を立証しなければ不安も生まれよう。その不安(苦しみ)があればこそ自身の存在を立証できた時には安心(快楽)も生まれよう。

しかし世の現れは全て無常であり、それは現に全ての者が体感し続けている。それ故にやはり疑念は払拭しきれない。安心したらまた不安に、幸せになったらまた苦しみに…いたちごっこだ。

その全てが無意味なのだ。その生き方(個人的な欲望を元にした個人的な幸福の追求の人生)が完全に無意味であり無駄であるが故に(何故ならその全てが死によって挫折に終わる事が初めから確定しているから)個人は虚しさから逃れきれない。

自我は不滅の幸福を実現できずに死ぬ(消滅する)からこそ、その死は虚無を連想させる。そして人は死を恐れる。自身の消失を恐れる。

自己疑念・苦しみは無意味なものだ。人は苦しみではなく、幸福を望んでいるからだ。しかし苦しみは真実を指し示すという点では尊い。ニサルガダッタ・マハラジは「苦しみはあなたを目覚めさせる」と言った。

自己疑念は正当でもあり、また不当でもある。一体どうしたらいいだろうか?

皆、好きにしていればよいだろうと思う。誤った自己疑念や自己否定は自我に魔性の力を与える。それはとても強力だ。魔性の力とは"我の強さ"であり、顕示欲なり威圧的な力や輝きであったり…世俗的に善い力とかポジティブとされているものだ。世界がその様な魔性の力を崇めて奉っているのだから、多くの人々がその様な力を有する存在を目指すのはある意味自然でもある。

各々、勝手にしていればよいだろう。それに応じた果報を当人が得る。しかしその果報は当人から他者に廻されもする。苦しんでいる人間は時に他者の不幸や没落を願ったり、喜んだりもする。そういう思いも"目には目を"の次元で見れば妥当でもある。何故なら現代人の幸福は基本的に搾取や差別の性質にあるからだ。ヤられた側(椅子取りゲームで椅子を取られた側)からすればやはり良い思いはしないものだろう。誰だって人が普通に持っている当たり前の幸福に自分だけありつけなかったら…それなりに拗ねたりするものだ。打ち負かしてやろうとか、引きずり降ろしてやろうとか…悪魔が囁くのも当然だ。

しかしその様な勝った負けたの引きずり降ろし合戦の先に幸福は無い。ゲームとしては勝った負けたも楽しいものだ。しかし人生や自分の存在そのものに適応すべき話ではない。個人レベルでも世界レベルでもそれは苦しみにしかならない。その意味合いではやはり人間は魔性ではなく善性や神性を志すべきではある。少なくとも自分はそう考える。

究極的に自己疑念は本来無用なものだ。皆が皆、その本質においては本来素晴らしい存在だ。現代人が心配している自分の価値や意味についても本来は全く心配する必要はない。そして生も死も決して空虚なものではない。確かに全ては訳がわからない位に無限大の豊潤さを内在している。

その本来の自己こそが人間の本当の望みなのだ。