高齢ドライバーが幼い子どもを死に至らしめる、そういう事件を耳にするたび、ぼくたちは「現代社会の暗部」を見たような陰鬱な気分になる。

老い先短い者が、子どもの可能性を一瞬にして潰してしまう構造に、しかしなぜこれほどぼくらは心を揺さぶられるのだろう。

交通事故は至る所で起きているし、可能性が潰されることに、子どもも大人もないはずではないか?

 

ぼくたち人間は普段から可能性として存在している。常にぼくたちは「これから」を考えているのであり、無意識のうちに「これから」によって自分のあり方を定めている。

他人を見るにあたっても、ぼくたちは他人を可能性として見ている。その者が自身に与えるかもしれない危険や利益、世の中に及ぼしうる影響なんかから、他人の価値を測ったりしている。知らないうちに、ぼくたちは「人間=可能性」という構図を自明のものとして前提している。

 

同時にぼくらが自明視しているのが、「規定されているものほど可能性は限定されていて、未規定なものほど可能性に限りがない」ということ。これはほとんど同語反復のようなのだけれども、しかしぼくたちの誤認を誘う原因がここにあるように思う。

 

ぼくたちは可能性をひとつの価値のように考えてしまっている。人間を可能性として捉えながら、人間を価値づける視点をぼくたちはつねに持ってしまうから、「可能性」と「価値」とが結びつくことも全く自然なことだ。

 

上の同語反復のような文言と、可能性と価値との結びつきを、あわせて考えると次の帰結が導かれる。

「未規定なものほど可能性に限りがなく、そのため価値も測り知れない」

「規定されているものほど可能性が限定されていて、その価値は取るに足らないものだ」

 

高齢者が幼児を轢き殺すことは、「価値の取るに足りないもの」が「価値の測り知れないもの」を破壊する、という構図において捉えられることになる。

 

けれども、「可能性=価値」という前提そのものが、ひとつの錯誤にほかならないのだ。「可能性がある」というだけでは、本来いかなる価値とも結びつくことはないはずだろう。

 

ぼくはここで、べつに老人の価値を高めようだとか、子どもには言うほど価値がないだとか、そんなことを言いたいわけではない。

注意喚起として、「可能性=価値」という前提が、ひどく単純な論理展開へと陥ってしまうことに着目したいのだ。

すなわち、「価値あるものを破壊する価値のないものなど、害悪にほかならない」という考え方が、蔓延することを恐れているのである。

じっさいこの「合理的」な思考は、現在そう珍しいものではなくなっているように思う。

 

人間はそう単純なものではない。合理的な構図に落とし込めるようなものではない。ぼくはまだそう信じているのだけれども、こんなヒューマニズムめいた言い回しをしていたのではいつまでも通じることはないだろう。どうしたものだろうか。

 

ちなみに余談だけれども、本質的には、子どもは可能性が大きいから尊重されているのではない。その存在そのものが希望だからだ。

可能性が価値とみなされるためには内容が必要だけれども、希望には内容が必要ない。内容のない「いつか、どこか」が希望にほかならないからだ。