S-MXというホンダの車があった。トヨタのbBと同系統の、トール系ワゴンに属する5人乗りの車だ。bBと同じく、当時ヤンキー層に人気があった車種だ。
ヤンキーの好みの傾向として挙げられるのは、ふてぶてしさを前面に出したような尊大なデザインがひとつあるだろう。
「自分は他人の目など気にせず、傍若無人に振舞うのだ」と宣言するような見た目。
S-MXは別名「走るラブホ」と呼ばれ、フラットになるシートやちょうどいい位置のティッシュ置きなど「あからさま」な装備が話題になった。
この「あからさまさ」は、ヤンキーにとっては傍若無人さを表現するための格好の要素であり、いっぽう一般人にとってはこれ以上なく「下品に」映るものだった。ベタベタに落とした車高にネオン管を積んだS-MXは、乗る本人の満足とは対照的に、人々の嘲笑の対象であったといっていい。
そういう「あからさまさ」は、もともと専売特許のはずだった。それがここのところ、一般的な欲望の対象になってしまっているように思う。
モデルチェンジのたびにメッキパーツをゴテゴテと増やしていく車種がどれほど多いことか。ヤン車の代名詞だったネオン管も、純正オプションの「フットライト」と名前を変えて、ひとつの人気オプションになっている。
ひとことで、社会がヤンキー化していると言って済ましてしまってもいいのだけれど、それだけではあまり面白くない。「露骨な欲望」が、どうして受け入れられるようになっているのか、それを少し考えてみたい。
まずひとつに、ヤンキー的な趣向は、もともと誰のうちにもあったということ。嘲笑の対象としながら、奥底では正面切って欲望を発露させるヤンキーたちに嫉妬していたというのは、指摘するまでもなく明らかだ。
車メーカーは正確に、その需要があることを捉えていた。アルファードの購入層を示す社員向けマニュアルの存在は有名だけれども、やはりトヨタはそういうところがとんでもなく上手だ。ぼくにしてみれば消費者を馬鹿にしているようにしか見えないのだけれど、しっかりそれが響く層がいてしまう。
いったんその欲望に狙いを定めてしまえば、あとはもう消費と欲望の連鎖だ。「メーカー純正」を免罪符に、堂々とそれまで「下品」と嘲笑していたはずのものを称揚しはじめる。心の底で、恥ずかしさを感じていないはずはないのだけれど。「いやこれ純正だし」と、きっと彼らはまばたきするのだろう。
ぼくたちは露骨に、他人にマウントを取りたいという欲望をもっている。見せつけたいという欲望をもっている。それを発露させるのは、下品な所作であったはずなのだけれども。売る側がその欲望に「お墨付き」を与えたわけだ。経済を回すためにもっとも有効なのは、このマウンティング欲をくすぐり、しかもそれを正当なものとして認めることなのだろう。こういう構造によって成り立つ価値観を、ぼくは端的にクソだと思うけれど。
ヤンキーはもはや一般人と変わらぬ価値観をもつに過ぎない。ヤンキーはどこかに行ってしまった。彼らの繊細な、自己防衛のための所作は、下品なマウンティングの所作に取って変わられてしまった。
自分で自分をうまく処理することのできない、持て余された自己意識は、「異常者」のしるしとしてしか見られなくなった。こんなはずじゃ、なかったように思うのだが。