ぼくらは生まれてからずっと、今を受け入れることを教えられてきた。

べつにポエムとかではなく、平成の時代の本質は「現状肯定」にあったと言っていい。

 

何かが決定的に失われているのだけれども、それについて考えることは歓迎されなかった。

社会全体に認めることのできない大きな挫折があったのかもしれない。

 

トラウマは語られることができない。語ることができたらトラウマになっていないからだ。

言語化することができないまま生じた穴を避けるように、ぼくらは「満たされたぼくたち」を信じつづけなければならなかった。

 

失われてしまったものは何だったのか?それを考えることは無意識のうちに抑圧されたものをサルベージする作業にひとしい。

 

けれどもいま、合理性信仰の時代にふさわしく、きわめて形式的にそれを導出することができるようにも思うのだ。

 

それは沈んでいったものたちのうちにある。歓迎される言葉、共感を呼ぶ言葉たちの、裏側にある。

誰の目にも触れることなく、コメントもいいねも付与されることなく通過されるもの。

 

時代のフィルターに、まったく引っかからないもの。それはきれいに、時代が無意識に避けているものの形を、反映しているかもしれない。