あらゆるものが作為的で、偽物のように感じる。自分自身の存在も。

 

そういう感覚を持っている人はいないだろうか。たぶん結構多いと思うのだが。

 

表現の分野で天才と持て囃される人たちの偽物感、作られたキャラ設定感。

それが「もともとそうである」性質よりも、「そうあらねばならない」と枠にあとから押し込められたような違和感。

 

もしかしたら本人たちがいちばん、こういう感覚を抱いているのではなかと、ぼくは思う。

「自分には本当は才能がないのでは」「そういうことにしておいた方が都合がいいだけなのでは」

現代においてあらゆる表現者は、この問いにぶち当たらずにはいない。

 

もちろんいつの時代でも、自分自身才能に悩む者はたくさんいたはずだろう。

けれども現代の特異な点は、「もともとそうである」ことに対して、「そうあらねばならない」が何歩も先んじているところだろう。

 

私を規定するのは私ではないのであって、私は外部から提示される記号によって形成される。

SNS上に溢れかえる記号の集積が、「巨大な他人の声」を自分のうちに作りだす。それが自分の、「そうあらねばならない」を定めてくる。

一般意志のようなものが、ひとりひとりのうちにインストールされて、かなりの度合いで似通った基準を定めてしまう。

 

端的に、ぼくらは自身のあらゆる行為について、そこへと投げかけられる膨大な非難の声を意識せずにはいない。

人を「偽物」にしてしまうのは、この想定上の非難の声にほかならない。別に現代が貧しいから、天才がいなくなってしまったのではない。

SNSという検査基準をクリアしうるブレーキが、人間のうちに自ずから組み込まれてしまう、そういう構造があるだけだ。

 

出る杭を打つのはいまや他人ではない。安全装置をぼくたちのうちに組み込む制度そのものが、あらゆるものを平たくしていく。