詐欺師フェーリクス・クルルの告白(光文社古典新訳文庫):トーマス・マン | 夜の旅と朝の夢

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詐欺師フェーリクス・クルルの告白〈上〉 (光文社古典新訳文庫)/トーマス マン

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詐欺師フェーリクス・クルルの告白(下) (光文社古典新訳文庫)/トーマス マン

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作者のパウル・トーマス・マン(1875-1955)は、20世紀を代表するドイツの文豪ですね。

マンは裕福な家庭に育ち、両親の影響もあって若いころから文学をメインとする芸術に打ち込みます。マンが16歳のときの父の死によって家は没落していくのですが、マンは10代から作品を発表し、20代で有名な長編小説「ブッデンブローク家の人々」を書き上げるなど、早熟な才能を開花させていきます。

その後も作品を出版し続け、小説家としての地位を確固としたものにしますが、ナチスの台頭によって亡命生活へ。その後は、スイス、アメリカと住まいを移し、最終的にはスイスのチューリッヒで死去します。家の没落と芸術はマンの小説の中で繰り返し現れる主要なテーマの一つになっています。

個人的な話になりますけど、同じ人の作品の中で好きなものと嫌いなものとが極端に分かれてしまうのは、僕の場合トーマス・マンくらいです。

トーマス・マンの小説って、読んだことのあるひとは分かると思うのですが、基本的に波乱万丈なストーリーとは無縁なんですよね。芸術や、哲学、世情など(主に芸術ですが)に関する語りが大部分を占めます。こういう語りは比較的好きな方なのですが、それでもやはり限度があります。

「ブッデンブローク家の人々」と「魔の山」はとても好きな小説ですし、「ヴェニスに死す」などの中短編も好きです。でも「ワイマルのロッテ」になるとうんざりし、「ファウスト博士」の延々と続く音楽論になるともう苦痛。まあ、それでも頑張って読みましたけど、かなり疲れたのを覚えています。

ですから、本書を読み始めるときには、どちらに転ぶかわからず少しドキドキしました。が・・・当たった!って感じですね。面白いです。

先ず、ストーリーがトーマス・マンとしては波乱万丈です。まあ、一言で言えば、タイトル通りの話なのですが、このタイトルがまたアイロニカルですよね。詐欺師という人を騙すことを生業とする人間の告白なわけですから、その告白が既に怪しいわけです。でも本作を読んでみると特に怪しいところはなくて、正直な告白のように思えてきます。ここがまたちょっと不気味なところ。

さて主人公は、眉目秀麗なクルル(ケロロ小隊の一員ではない)。クルルは、幼少の頃から自分に二重性を持たせようとします。ここでの二重性とは、簡単に言えば、高貴でありながら卑賤であり、裕福でありながら貧乏であるそんな性質です。たまには仮面をかぶって別の人間になりたいとかそんな感性よりもっと徹底的で、どちらの自分も本当でどちらの自分も嘘というような人生の不在。そんな感じです。ちなみに二重性の暗喩は、本書のいたるところに出てきます。

さてクルルは裕福な家庭に育ちますが、父の死をきっかけに家は没落(マンと同じですね)、代父の推薦によりパリのホテルで働くことになります。ここで初めは無給で働くのですが、ある出来事により、かなりのお金を手に入れます。 そして平日は貧しいホテルマンとして働きながら、休日には裕福な人間として過ごす二重生活を楽しみながら、さらなる完全な二重生活を手に入れるチャンスを待ちます。

そんなある日、貴族の青年ヴェノスタから、自分になりすまして世界周遊に出て欲しいとの申し出を受けます。クルルは、申し出を受け入れ、ヴェノスタとなって世界周遊に出ることになります。そこで先ず、クルル(=ヴェノスタ)は、ポルトガルに向かうのですが、その道中でクックック博士という博物館館長と知り合いになって…。

クックックというのはかなり奇妙な名前ですが、これはドイツ語で郭公(カッコウ)の意味。クルルはクックックとマンお得意の長談義を行うのですが、この会話の前後でクルルは明らかに変化します。クルルはこの瞬間本当の詐欺師に化けたようなそんな印象です。

おそらく、クックックは本書の最重要人物でしょう。クルルの悪を開花させるという意味で悪魔(メフィストフェレス)的ですが、クルルを成長させるという意味では父(=神)的です。

クックックによって開花したクルルの身に対して、世界周遊中にも様々冒険が起こりそうな予感と伏線はあるのですが、結局はポルトガルから外に出ずに物語は終わってしまいます。

なぜかといえば、本書の副題は「回想録第1部」なのですが、第2部が結局書かれなかったためです。要するに未完の作品なんですよね。残念ですが、致し方ないです。死は個人の予定なんて無視してやってきますから。でも第1部だけでも個人的には十分に面白いと思います。おススメとは言いづらいものがあったりもしますが、興味ある方は是非。