今も折に触れて思い出す。


楽しかったこともあったけど、

苦しみの方が多かった会社での日々を。


苦しいこと、思い通りにならないことが

社会に出たら当たり前だ、と聞いていたから


理不尽な物言いをされても自分が悪いんだと

思っていた。思い込むようになっていた。


職場を離れた今

その頃の生活を振り返ると、

何が正しかったのか

どこが間違っていたのか、

その正確な判断がこんなにもはっきりとつくようになった。


人は、気持ちが弱っていれば

誤った方向にいってしまうものだと思う。


今となってはもう

あの先輩が悪かったんだ、

なんて決め付けるつもりはない。


だけど、社会には理不尽なことを言う人もたくさんいて、

「やる気」を強要するくせに自分自身はそれが伴っていない

人もたくさんいて、

皆それぞれの思惑通りに生きているんだということ、

それが分かっただけでも

ひとつ、世間知らずから脱却したと言えるんじゃないかと思う。


これを読んで下さっている方のなかに

今仕事関係で悩んでいる方がいるとしたら、

忘れないでください。


負けたくないという気持ちさえあれば必ず、

人は何度でもやり直せるということを。


今の環境が長年つづくわけではないということを。

Yと知り合いになった夜の次の日から、数ヶ月に渡る研修が始まった。

同期全員が一堂に会し、広い会議室で改めて、詳しく会社の説明やら

経営理念やらを教え込まれた。


20分程度の、自社が取り上げられた短いドキュメンタリー番組が

スクリーンに映し出された時には、がむしゃらに働く社員達の熱意に感動して、

ハンカチで涙をぬぐう同期もいた。私には、寸分の隙もなく作りこまれた

その番組の、いったいどの部分が彼らの涙腺を刺激したのか全く理解

できずに、ひたすらノートに落書きをしていた。



 講義はまだ気が楽だった。会社側は、頭の柔らかい新人に、

商品を売るための戦略的思考を学ばせるため、時々グループ討論を課した。

その時間が来ると私の体は硬直した。



 ある時の議題は、発売されたばかりである自社の商品「M」の売上高を

いかにして伸ばすか、というものだった。

5人のグループでそれぞれ討論が行われる。

会議室は沈黙から一瞬にしてざわざわと騒がしくなる。

ミュートにしていたステレオの音量を一気に上げたみたいだ。



グループ内は自然に「一人ずつ意見を発表していこう」という流れになる。


  カタカナ語が飛び交うなか、いつしか私の発表する番になる。

我知らず舌がもつれた。誰かが言ったことと、自分が出来るだけ知恵を

振り絞ったこととをごちゃまぜにしたような内容を言うのが精一杯だった。

グループの仲間は、私の意見には目新しいものがないことを知ると、

興味を失ったような目をして、それでも少しは頷きながらメモを取った。



たまたまその時に一緒のグループになった人達が優秀だったわけではなく、

私以外の同期が皆一様に優秀だった。

グループ討論が終わって全体で総括が行われるとき、

Yが自分のグループから出た意見のまとめを発表するのを聞いた。

彼は誰よりももっともらしく、円滑にスタートを切ったのだと、
私はぼんやり思った。

前回までの記事 のつづきです)


周囲は相変わらずバカ騒ぎをする同期のせいで、

がやがやと騒がしかったが、そんなことはもう気にならなくなっていた。

Yはちびりちびりとビールを飲みながら、またゆっくりと口を開いた。



「自然は人を騙さないからいいよ。見たまんま。

人は外見からじゃ分からないことも多いからな。

だからみんなああやって、大学は?専門は?って訊きたがる。

○○大学出身です、ってプラカード掲げて歩くわけにいかないからね。


そうやって少しずつ外堀を埋めて、こいつとは仲間になれそうか、って

おそるおそる様子見ばっかりする。でも、その人がどんな人かなんていうのは、

何も訊かなくても、ちょっと注意して見りゃあ分かるのにな」



Yはそんなようなことを言って、少し話を中断した。

そしてまた、香りを楽しむかのように煙草を吸い、

しばらく間を置いて紫煙を吐き出した。その姿はゆったりしていて、

私は時々うっとりと眠気を誘われるような心持ちがした。



「口ではいくらでも偉そうなことを言えるけどさ、本質は見る人が見れば

丸分かりだよな。

だから本当に尽力すべきなのは、いかにもっともらしく
見せられるかということだと俺は思う。
完璧に本質を伴わせることは、

欠陥ばっかりの人間にとって少し難しいからな。


自分をもっともらしく見せるのに、

学歴は必ずしも必要ない。使いたいやつは使えばいいと思う。でもそれは、

本質を見抜く人の前ではあくまでオマケにすぎない」



「でも、本質を見せるためにはもっともらしくするしかないとしたら、

結局騙し合いになるよね?」

私はつい口を挟んだ。



「そうだよ。だからこそ俺は自然に惹かれたんだ。

偽りも隠しもしない自然にね。だけど、○さんだって俺を騙したじゃないか。

その作り物のマスカラで。やっぱり人は信じられないな!」

Yはすねたような瞳で私を責めた。その顔を見て、私は声を上げて笑った。


 グラスに入った飲みかけのビールの泡は、

 次から次へと生まれて、表面へのぼろうとしていた。

 

 私には恋人がいるけれど、そんなことはどうだって構わないと、

 酔いにまかせてその時はそんなことを思ったりした。