第2章 美に呑まれた音の支配者



「おい、この程度の片付けがまだ終わらないのか!
 さっさと終わらせろ、この役立たずが!」
「は、はい…ごめんなさい…。」
「癪に障る…いちいち謝るな!」
「は…はい…。」
「チッ…。」
誰もが憧れる、大きく立派な洋館。
執事を雇い、ゆったりと暮らしていれば、
これほど心落ち着く環境も無かったであろう。
しかし、館の中に響き渡る声からは、
そんな平穏とは程遠い雰囲気しか感じられない。
「ふん、まあ良い。終わったら上へ戻れ。あまり長居するな。」
「はい…。」
吐き捨てるように言うと、命令していた男は館の奥へ消えた。
(お父さん…今日は手を上げなかった…。機嫌が良いのかな?)


レイラが父と呼んだ男こそ、代々音楽に関わっている、
プリズムリバー家の生み出した、貴台の名指揮者である。
プリズムリバーにオーケストラを振らせれば、
素人集団でさえ、1曲で名楽団へと進化させる。
業界内では、そこまで言わしめるほどの腕前で、
まさに、オーケストラマスターと呼ぶに相応しい人物だった。
しかし、同時に非常に謙虚な性格でも知られていた。
常々、
「自分は実際に楽器を手にしている奏者に助けられているだけだ。」
というスタンスを崩さなかった、と言われている。
家庭でもその人ぶりは変わらず、多くの家族と執事に慕われ、
理想の円満な家庭を築き、幸せに暮らしていた。
ところが、ある日を境にして、その心は急変してしまった。
決まっていたコンサートは全て無断でキャンセル。
家庭内暴力が始まり、家族全員を震え上がらせた。
業界でも瞬く間に信用を失い、執事は全員が逃げるように辞めた。
レイラ以外の家族は失踪し、今も行方は判っていない。
家族はレイラ1人となり、酒におぼれる毎日となってしまった。











妖気はいつの間にか、目を伏せていた。
幽々子は表情1つ変えず、ゆっくりと答える。
「…大したものですわ、そこまで正確に調べるなんて。
 本当に何者なのかしら、貴方は。」
「しがないスキマの、一妖怪ですわ。
 おせっかいと、胡散臭さが珠にキズですが。」
「…そもそも珠である、とは思えませんわ。」
「…弾、であれば得意分野ですわ。」
「ふふ…おかしな妖怪もいたものね。」
「ええ、私は妖の間でも、相当おかしいと評判ですわ。」
幽々子と紫は、互いに笑い合った。
妖忌にとっては、異様な光景だった。
西行妖と幽々子を眼前にしながら、死へと誘われない妖怪。
気味が悪い。更に、長らく見られなかった幽々子の笑顔。
これを引き出した様は、奇術でも見ているかのようだった。
しかし、畏怖と同時に、期待も生まれたような気がした。
魂魄の姓を持つ者以外に、西行とまともに話が出来る。
このような者は、妖忌の知る限り、前例が無い。
上手く引き込めば、幽々子の話し相手くらいにはなる。
幽々子のふさいだ気質を変える、絶好機かもしれない。
事実、今この時、幽々子の気持ちは少し軽くなっていた。
あながち、妖忌の感じた『奇術』という表現も間違いでは無い。
紫の持つ、境界を操る程度の能力。
これは、何も妖力を用いて何かを変えるだけでは無い。
幽々子との会話において、その話術を巧みに用い、
躁と鬱の境界に触れた結果、幽々子が僅かに躁へと傾いた。
そうして幽々子との距離を縮める事が、紫の目的だった。
全ての需要と供給が一致し、妖怪桜の元に、
新たな命が加わる事となった。


「申し送れました。私、妖怪を生業とする、八雲 紫と申します。
 以後、お見知りおき下さいませ、西行寺幽々子さん。」
「ええ。もうご存知のようですが、私は西行寺幽々子。
 こちらは、身の周りの面倒を見てくれる、魂魄妖忌。
 その様子だと、今後もちょくちょくいらっしゃるんでしょ?
 次はお茶くらい用意しておきますわ。」
「あら、それは楽しみだわ。次も早く来ないと。」











「それにしても、おかしな者もいたものですね。
 ここまで来てなお、それだけの正気を保てるなんて。」
「ええ、私にとって生と死の境界など、曖昧なものですから。」
「相当知っている様子ね。どこまでご存知なのかしら?」
「推測を含めれば、恐らくほぼ全て。」
「では、答え合わせをご希望で?」
「目的の1つですわ。それでは早速、私の知を。」
紫は、差していた傘をたたみ、扇を返した。
親指を隠し、四つ指を相手に見せるのは、
女性が和装時に嗜む作法の1つだ。
しかし、紫は洋装である為、袖からあおぐ事は出来ない。
「ここに住まう者は代々、西行妖と言う名の神木を守り続けてきた。
 しかし、桜は見事な成長を遂げれば遂げるほど、
 その身に強大な妖気を帯びるようになっていった。
 その妖気は、テンプテーションとなって人々を魅了。
 取り憑かれた者は、その美しさに身を振るわせる。
 あまりにもキャパを超えた快感に、心が絶えられず、
 究極の不快である、死を求めて自尽して逝く。
 至高の快感と、究極の不快の境界に立った者は、
 光悦の表情のまま死に至ると言う。
 そして、この桜に長年尽くし続けてきた西行の者には、
 西行妖と同じ妖気が宿るようになった。
 人は、西行の者に近寄るだけで死に至る。
 それを隠す為であるかのように、いつしか。
 西行の者は、桜の元から全く離れなくなる。
 桜の近くにいれば、死が桜の所為に見えるから。
 しかし、このままではいけない、と考えた者が居る。
 ある代の者は、桜と西行の関係を徹底的に調べた。
 そして判ったのは、西行妖最初の犠牲者の名前。
 最初に桜の虜になった者こそ、歌の聖人西行法師。
 彼が自害してから、桜が妖気を帯びるようになった。
 それこそが、桜が西行妖と呼ばれる由縁でもある。
 それを知り、責任を感じたその代の者は、
 ある1つの決心を固めた…。」