清和会安泰の理由

カルトの世紀2

MRAによる日米間の交流プログラムは、国務総省やCIAの秘密のミッションの隠れ蓑にもなっていた。CIAのエージェントで、長くレバノンやベイルートでピューロチーフを勤めたマイケル コープランドの著作によれば、MRAは明確にCIAのコントロール下にあったという。70年代以降、日米間の複雑に入り組んだネットワークの中枢を担ったのが、MRAの本部も兼ねていた日本国際交流センター(IE)だった。
IEは、デビィッド ロックフェラーが委員長を勤める日米欧委員会(三極委員会)の事務所を兼ねており、日本におけるロックフェラー財閥の代表機関になっていた。
JCIE理事山本正は、ロックフェラーの日本秘書とも呼ばれ、「すべてのことが山本を経由する」と言われるほど、日米間のパイプを押さえていたという。デビィッド ロックフェラーやキッシンジャーをファーストネームで呼ぶことができる唯一の日本人と言われた。

安倍晋三の祖父でCIAのエージェントであった岸信介もMRAに深く関わっていた。岸は、首相就任直後の1957年に、二度に渡ってアメリカを含む東南アジア、太平洋15か国を訪問して、日本の過去の戦争について謝罪した。特に二回目の訪問にはフィリピンやオーストラリアなど反日感情が強い国があった。オーストラリアの在郷軍人会は岸を戦争犯罪者として批判していたがブックマンと親しい外交官アラン グリヒィスらの説得によって、訪問受け入れに転換した。
岸は、首相在任中の1960年に、日本を訪れたMRAの代表団に、「諸君は全世界に対して道徳的バックボーンを与えるようにしておられる。私は、MRAが6週間にわたって我が国にあたえた圧倒的な影響力に対して感謝の気持ちを表明したいと挨拶した。当時は60年安保闘争運動で、岸打倒がまさにピークに達していた時であり、MRA代表団の訪日のタイミングは絶妙なものだった。
1961年、岸は福田とともにコーのMRA世界大会に参加した。MRAは、権力回復に野心を燃やす戦争犯罪者たちに公開謝罪の場を提供した。岸も他の懺悔者とともにMRAの国際会議室で涙をながしてみせた。しかし岸は、戦後日本で最も反動的な首相であり、わずか三年間の在任中に、警察官の権限を拡大強化する警察官職務執行法改正案、紀元説の復活といった史上稀にみる反進歩的な法案を提出した。
「スイスのコーというところに、MRAの夏期錬成道場がある。これは、道場といっても戦時中の日本にあったような殺風景なものではなくて、素晴らしい豪華なホテルである。世界一景色のいいところにある最高級のホテルで、世界の珍味を集めた料理を食ってチェンジする。すなわち、心を入れ替えるのである。階級闘争や有色人種運動の指導者が、資本家や白人に対する憎しみを捨てるのである。近頃の流行語でいえば洗脳だ。中国では、革命に協力しない反動分子を思想改造所という監獄に入れて洗脳を行っているが、MRAではありったけの贅沢をさせることで同じ目的を達成しようとしたのである。ただし、その手段が全然違っていて、チェンジさせる方向も正反対である。」

教祖のブラックマンには、後で、日本政府から勲章が送られ、中学の道徳の教科書にも載っている。

(1950年代、アメリカ占領下で朝鮮戦争が勃発し、アメリカ対ソ連の冷戦が作られた。経済統制を脱しながら、戦後の混乱期に腹を減らした大衆を先導したインテリは、世界のエスタブリッシュメントのおこぼれに預かり、食欲、性欲で、歪んだ西欧化の道を歩んだ。哲学のない政治家、学習は、このあたりから増幅し始めた。今はクライマックスだ。)
1950年6月、戦後初めてマッカーサーが出国を認めた72名の大型施設団が、コーのMRA世界大会に出席した。ブックマンは「日本はアジアの灯火たれ」といって、日本代表団を激励した。
石坂泰三東芝社長、浜井真三広島市長、大橋博長崎市長などのメンバーに混じって、若き中曽根康弘がいた。アメリカ行きの飛行機が離陸するのを待つ間、中曽根は、三井財閥の一向に「10年したら私は総理大臣になる」と野心を打ち明けたという。実際には、それは32年後まで実現しなかったが、その間、中曽根はいくつもの内閣ポストにつき、ロッキード事件やリクルート事件に連座しながらも奇跡的に無傷を保った。
日本代表団は、ヨーロッパからアメリカに渡り、北村徳太郎、栗山長朗が米議会で太平洋戦争について謝罪した。浜井広島市長はロサンゼルスで「私たちは、誰に対しても恨みは抱いておりません。同じことが、二度と起こらないようにあらゆる努力をはらってほしいということです」と語った。
浜井のこの発言は「過ちは繰り返しませんから」という広島の原爆記念碑の碑文作成に影響を与えたといわれる。
米軍による原爆投下という残虐行為の責任を曖昧にするこの奇妙な碑文もこうした経緯を見れば納得がいく。
米軍による占領が終わり、日本の海外渡航許可が得られるようになると、MRAは日米間の文化交流プログラムのもとに、日本の指導者たちとその予備軍を欧米への官費旅行に招待し、外国の指導者に引き合わせ、労使協調と反共についての説教を吹き込んだ。
1953年、東芝の勤労部長と労組委員長がともにコーのMRA会議に参加。石川島播磨重工業の柳沢委員長もこの会議に参加し、土光敏夫との「信頼関係」を築いた。これが、日本全体の協調的労使関係の形成につながった。
ジャーナリストの大家壮一は「昭和怪物伝」に収録された右翼宗教団体 生長の家の教祖 谷口雅春についての文章の中で、MRAについて触れている。

「世界旅行で私が得た大きな収穫のひとつはMRAというものの正体が非常によくわかったことである。戦後日本人で外国へ行ったもののなかで、MRAの正体というのが大きなパーセンテージを占めている。そのなかでも国会議員、地方議員、知事、市長などの公用族が多い。しかし、最も多いのは、革新政党の議員や労組の幹部である。彼らはわれわれとともにMRAの大会に出かけていって何を得ただろうか?」