塾の広告には「面倒見主義」なんていう文句が踊っていたりしますが、それで良いのか。教育を「技能を身に付けさせること」としてみると、面倒見のいい教育というのは、問題があるんじゃないかと思います。ひとつには、生徒を頼らせてしまうので。もうひとつには、生徒の柔軟な思考力を縛り付けてしまうので。

「生徒を頼らせてしまう」というのは、技能習得の仕方、勉強の仕方に関する問題ですね。面倒見のいい塾というと、生徒が解いた試験の解答を分析して、分析結果を綺麗な成績表にまとめて、それを読めば自分のどこが弱点でどんな勉強をすべきかが書いてあって、細かくレベル毎に別れた自分にピッタリのレベルのクラスに所属して勉強し、分からないところはいつでも先生に質問できる、といったところでしょうか。しかし、生徒というのはそんなに何もできないものなのでしょうか。自分の受けた試験結果を自分で分析することもできないのか。それを自分でまとめて頭にぶち込むこともできないのか。どんな勉強をすべきか自分で分からないのか。塾のクラスが多少ハイレベルすぎても根性で追いつけないのか。分からないところは自分で解答を読めば分かるんじゃないのか。それくらいの自己管理ができないで、果たして社会に出て役に立つ人材になれるのか。義務教育9年+高等教育3年を終えた18歳の若者が、自分のケツも自分でふけなくていいのか。せめて自分の本分である勉強くらいは、自力でできなくてどうするのか。
そして、上位の成績をとる「できる子」というのは、概してこれらのことを自分でやっているものです。塾側がこうした作業を生徒から奪って、お仕着せの学習環境に子供をはめ込んで、本当に勉強ができるようになるのでしょうか。実際に勉強ができる子は、まったく違うやり方をしているというのに。
塾がいくら丁寧に面倒を見るといっても、それには限度があります。自分で自分を見る以上に、他人が自分を見ることなどありえない。自分は自分を24時間監視できますが、教師はどうせ一日2時間も会っていれば長く会っている方で、その間も多くの生徒を同時に見るのだから、実質的には10分見てもらえればいい方です。そしていくらピッタリ教師が一対一で生徒にへばり付いたとしても、本人の自覚がなければ、身の入った勉強などできるものではありません。家庭教師が2時間3時間とへばり付いて問題の解法を解説をしても、その解説内容をぜひ身に付けようと生徒が耳を傾け、考え、自分の頭の中を整理し、構築し、自分の今までの間違いを見つけだすようでなければ、何を言っても無駄というものです。ダラダラと練習問題を繰り返しても「やっぱり勉強はつまらない」とか「やっぱり自分はできないのだ」とか、勉強の邪魔になるような信念を強化するだけのことです。勉強を自分自身に関係する問題と捉えて、自分の現状を分析し、必要なものを模索し、自ら勉強を進めるようでなければ、勉強ができるようになどならない。

「生徒の柔軟な思考力を縛り付けてしまう」という勉強内容の問題は、明日論じましょう。
私は幾つかの原則をもって教育に携わっています。そのうちのひとつが「子供を独立した個人として扱う」という事です。そのように考えるほうが、様々な意味で子供にとって有益だと考えています。理由は幾つかありますが、大雑把に言えば、個人として尊重されることで自覚が高まったり自信が深まったりすることと、個人として自立を要求されることで厳しく育てることができる。「君は自立できる」「君は自立せねばならない」という、飴と鞭の双方の意味を持つわけです。
これが子供の心の成長や成績の向上に役立つであろう事は、なんとなくわかるでしょう。しかし、それがどこまで重要かと言われればピンと来ず、実際には「分かってはいるけれど、つい……」という親御さんが多いのではないかと想像します。ちょっと考えてみましょう。

現在、成績が振るわないとしましょう。どれだけできていれば「成績が振るっている」と言えるかは基準次第なのですが、とりあえず本人が納得できていない状態が「成績が振るわない」状態です。
ここで、自立した子なら「やっぱ、こりゃ、あかんよな」と勉強を開始するでしょう。(それができていれば、そうそう「振るわない」状態には陥らないでしょうが)
それに対して、自立できていない子というのは、どうなるか。そういう子は、そもそも「何が問題か認識する」という作業を他人にやってもらう事に慣れてしまっています。なんとなくまずい、というモヤモヤ感は持っていても、それを解決すべき問題として捉えられない。周囲で見ている教師や親御さんは「どうしてサッサと勉強してこの状況を変えないんだろう?」とヤキモキするでしょうが、それは「これは勉強して解決すべき問題なのだ」という認識があるから。本人の気持ちの中では、それは解決策のある「問題」ではなく、あくまで「もやもや」でしかないんですね。「これ、まずいんじゃないの?」と指摘されるまで、解決のための行動を起こせない。
さて、ようやく周囲が問題を指摘しても、「自分が解決しなければ誰も解決してくれない」という覚悟がありませんから、問題を先送りします。彼らにとっては、食事は待っていれば出てくるものだし、部屋は学校に行っている間に掃除してもらえるものです。「自分が問題を解決しないと状況は変わらない」という発想が希薄ですから、「こりゃ何とかしないとなぁ」と思っても、思うばかりで行動が出ない。何をすべきか指示される事に慣れていると、自分がどういう方向へ動くべきか分かっていても、指示がない限り動けないなどという事になります。ビジネスの分野では「指示待ち人間」という言葉がよく聞かれますが、就職活動の際に「指示待ち人間」として採用してもらえない人間は、決して就職活動を始めた途端に指示待ち人間になったのではなく、学生時代から指示待ち人間なのです。
それ以前に、「勉強しなくて良いの?」と言われて反発する例も多いでしょう。他人への文句や反発が多いのは、伸び伸びと自分の力を発揮できていない人間の特徴です。「けっきょく問題を解決するのは自分だし、解決できなくて困るのも自分だ。これは純粋に、自分の問題なのだ」と分かっていれば、周囲から何を言われようが自分の取るべき行動は決まっており、従って何を言われようが問題にはならないはずです。親御さんに「勉強しなくて良いの?」と問われてお子さんがムッとするのは、それだけお子さんにとって親御さんの言葉が無視できない、親御さんの影響を強く受けている、親離れできていない、という事に他なりません。
さて、勉強する段になっても、自立できていない子は一向に勉強が進みません。勉強は、自分にとって十分なレベルの教材を使ってやっていれば、必ず理解できない問題にぶつかります。そのとき、「これも自力で何とかするしかないのだ」という発想が無いと、理解が成立するまでかじり付いていく事ができず、「疲れたから休憩」とマンガを読み始めたりしてしまう。
この「勉強は始めたが、まだ甘えが残っている」というパターンは、比較的優秀な成績を取っている子にも見られる現象です。例えば「数学の模範解答が読んでも理解できない」という子は多いですが、解答が読んでも分からないのに、どうして勉強ができるのでしょうか。確かに数学の解答というのは、日本語の文章とも違って、特殊な読解能力が要求されます。他人の書いた式の意味を理解するというのは、存外難しい。しかし問題が解けないだけならいざ知らず、解答の意味が分からないなどという事態は、相当ひどい状態だとも考えられないでしょうか。答えを教えてもらっても、まだ分からないのですから。そのような事態を放置していられるのは、なぜでしょうか。「分からなくてもいいや」という甘えがあるからではないでしょうか。
また、良い教材を探すことに異常に熱心な子、というのもしばしば見られるパターンです。参考書に載っている「パラグラフリーディング」のような、名前のついた特殊な解答法を忠実に実践していたりもします。こうした傾向は「解決策は他人が示してくれるので、それを学ぶべし」という思考法の存在を示しています。「他人が教えてくれるものに従う」これは要するにマニュアル思考です。マニュアルを良く読んで、それに従おうとする。優れたマニュアルを探し出せればそれでも何とかなるかも知れませんが、現実には予想外の事態がつきものです。そういう時に、とりあえず対応できる粘り強さ、力強さが無いと困る。このタイプの子達には、どんな路面でも走れる四輪駆動ジープのパワーがありません。中にはサラブレッドのように速く走る子もいますが、危うさがつきまといます。

この通り、本当に自立できている子というのは実に少なく、ある程度以上の好成績を収めている子の中にも、かなり甘えた考えの持ち主はいるものです。そしてその考えを払拭できれば、周囲は圧力をかける必要がなく、本人は周囲との軋轢に悩むことなく、驚くほどのパワーとスピードで成績を向上させることが可能です。

さて、いかがでしょうか。「自立が大切」という私の原則、説得力があるでしょうか……
私は表題の通り、「苦しんでいる子こそ可能性がある」と考えています。が、一般的には荒れている子は単純に難しいと考えられがちですね。今まさに苦しんでいるお子さんや、それを傍らで見ている親御さんには、何が可能性か、さっぱり分からないかも知れません。絶望的だと感じておられる方もいらっしゃるかも知れない。しかし「悩みは人間を深める」と、よく言いませんか? まあ陳腐な言葉ですけど、この言葉には、やっぱり一片の真理が含まれていると思います。陳腐な言葉ほど否定するのは難しいですよね。

<可能性>
そういう一般に言われていることわざだけではなく、私の教育理論でも、悩み苦しんでいる子の方が可能性がある、と言えます。私の書いたものを読んでいればお分かりいただけるかと思いますが、私の教育理論は、基本的に子供の心のエネルギー頼りです。子供に自立心を持たせ、自分で進むべき道を考えさせ、自分で決定した道を自分の力で進ませます。自動車を手で押すより、ガソリンを入れエンジンに点火して運転した方がいいように、子供も自分自身納得して、自分で自発的に行動したほうがずっと良い、という考えです。勉強にしても、精神発育にしても、社会に出てからの行動にしても、自ら行動できるのが望ましい。
しかし、そのためには心に十分なエネルギーがなければなりません。シラけていたり、ボーっとしていたのでは困るのです。心のエネルギーというのは、つまり感情のことだと思っていただければだいたい間違いありません。どんどん可能性を切り開くんだという希望、興味が満たされてゆくという歓び、こんなことあってはいけないという悲しみ、こんなこと許せないという怒り、そういった子供を突き動かす想いが、思考と意志力によって適切に制御されれば、子供は素晴らしい成果を出してくれるでしょう。成果はもちろん勉強だけに留まるものではなく、あらゆる点で活躍してくれるでしょう。
悩み苦しんでいる子というのは、エネルギーを持て余している子です。そのエネルギーの内容は問題ではありません。エネルギーを持っている、正にその事が、可能性なのです。

<問題>
ただし、その可能性を開花させるためには、既に述べたとおり思考と意志力によって適切に制御されなければいけません。しかし本人が傷ついたり、自信を失ったり、不安に囚われていたり、孤独に苛まれていたりすると、制御がうまくいきません。これらの精神状態は、意志を挫き思考を停止させてしまいます。
精神的なダメージは一般的に、それを乗り越える過程で心を大きく育ててくれるものです。しかし、乗り越えきれない間は、やはりハンデとなり続けます。そしてダメージがあまりに深く、精神障害との診断を受けるまでになってしまうと、大きなハンデとして立ちはだかることになります。まさに「障害」です。
精神障害という診断を受けた人の治癒は、残念ながら私の専門ではありません。専門の方でも、完治するという事は滅多にない。しかし、完全克服できない間にも、心の糧とすることは可能です。それによって培った精神的能力を、活かすことができると良いのですが……

<処方>
そのダメージの深さに関係なく、基本的な方針は心の傷をケアしつつ本人の思考力と意志力を涵養し、心の傷を力に変え、自らの力で自らの未来を掴み取らせる、という形になります。(ただしダメージの深さに比例して、処方は難しくなりますが)心の傷をケアする方法ですが、まずはケアする人間がその人の信頼を得て、その人への影響力を行使できるようになる必要があります。信頼を得るには、まずその人に寄り添うことですが、ここでベタベタしてはいけません。「私は貴方を理解しますよ、貴方の理解者ですよ、味方ですよ」というムードをむんむんさせる人がいますが、そうやって信頼を勝ち取っても、関係が馴れ合いになってしまう危険があります。また、相手がある程度以上頭のいい人であれば、その「理解者」ムードに胡散臭さをかぎ取ってしまうでしょうし、他人を信頼できなくなっている人は、こういう風に近づいてきた人にも噛みつきます。
ある程度の距離感が必要なのです。「私は別に貴方と関係ない。でも貴方が私に助けを求めるのであれば、できる事はして差し上げますよ。できない事はしませんけどね」極端に言えば、こういうムードです。ただ、これで冷たさが先立ってしまうと、そもそも心を開いてくれないでしょうから、うまくいきません。押しすぎもダメ、引きすぎもダメ、絶妙な距離を見極めないといけないのです。圧迫感はないけれど、無視するには近すぎる。興味ないと言いながら、かといって無視しているわけでもない。明らかな味方ではないけれど、どうも敵でもなさそうだ。そういう距離です。
そういう距離に、よく分からない人がいると、はじめ恐れたり憎んだりしていた人も、なんとなく相手のことが気になり出します。「なんだろうこの人?」と思い始める。興味が湧いて、質問を発したり、他愛ないお喋りを仕掛けたりします。こうなったらしめた物です。相手は興味を持っていますから、こちらはそれをじらします。「あんた何かんがえてんの?」「何って、じゃオマエは何かんがえてんだよ」「べつに、なにも。」「だろ? 人間そんなにハッキリしたこと考えてるもんじゃないよ」ここでもあくまで近づかず遠すぎずの距離感を保ちます。口調は相手に合わせるのが良いでしょう。ただし、そっくり相手の口調を真似るのはわざとらしいので、微妙に自分の個性も混ぜます。ここでも遠すぎず近すぎない距離感が大事です。
それで相手から悩みを語り出す場合もあるでしょう。そうならない場合は、雑談で二、三回も笑いを取った時点である程度打ち解けたと考え、本題に斬り込みます。これは一気に斬り込む。相手を少し驚かせ、こちらのペースに巻き込むために、ある程度のショックがあった方が宜しい。ここでは悩んでいる子供にケア目的で接触する大人がどう振る舞うべきかを語っているわけですから、もう相手の心の傷をケアすることは決まっています。だから、「で、いつになったら本題にはいるの?」「あのさ、そろそろ仕事はじめていいか?」等、分かってるんでしょ、という態度で始めるのなどは、まあ気の利いた方法と言えるでしょう。あるいは相手が何か悩みを抱えている、ということがハッキリ分かっていない場合(たとえばオドオドしている、周囲から距離をおいている、他者への視線に意地の悪いものがある、何か悪魔的なところがある子だ、等々の明らかな指標があるけれど、本人が悩みを語らない、といった状況)には、「ところでさ、君、なんか目的があってここへ来たんじゃないの? 違ったら失礼。でも、君ちょっと気になる子だね」「ところで、もしかして君、何か悩んでいることとかある? ちょっと僕の友達と似た印象を君から受けたんだけど。その人、ちょっと悩み事を抱えていてね。僕の気のせいかな」等々、ちょっと気になったんだけど、僕の思い過ごしかな? という論法が無難だと思います。その前の段階が上手くいっていれば、話を聞かせてくれるでしょう。押しつけがましくなく、かといって食い込みが弱すぎるのも困る。相手の空気、相手の好みによって話す言葉を変え、話の内容を変えます。概してセリフは短い方が好ましい。長々と喋ると、それだけで暑苦しくなるからです。それに、あまり理屈っぽい喋り方もNGです。相手の心に響く言葉が必要なのであって、詳細な解説は必要ないのです。言葉を発しつつ相手の様子を伺い、押し時か引き時か、結びの言葉で調整します。

悩みの内容を聞かせてくれるようになったところで、ようやく相手の信頼を獲得できたと言えるでしょう。ここからさらに影響力をつかみ、子供の心に影響を与えていきます。次は信頼されるだけでなく、影響力を振るう方法。そしてトラブルへの対処です。


<上位に立つ>
信頼だけなら対等でも勝ち得ることができますが、影響力を振るうためには相手より上位に立たねばなりません。そのためにも、ベタベタしてはいけない。聞いてあげるよ、ではなく、聞いてやってもいいゼ、という態度が望ましい。馴れ合いはしない。でもオマエの言い分は一通り聞くよ、という態度です。語られた悩みについても、同情しても良いけれど、言うべき事は言います。たとえば「俺の担任なんか、クラスに問題がなければいいとしか思ってないよ。事勿れ主義の標本だ」と不満を述べたら、「そうだなぁ、少なくともオマエに文句を言われているようじゃ大した教師じゃないな。しかしさ、それとオマエが学校行かないことと関係あんのか?」突っ込むところは突っ込みます。突っ込みの内容は的確でなければなりません。相手の悩みは一通り自分も経験しており、相手より自分の方が深く考えていることが必要です。また、ここでもバランス感覚が重要です。突っ込みすぎれば傷つけてしまう。相手の現在のムードは、よくよく見定めます。ちょっと辛そうなときには、黙って聞いてやった方がいい場合もある。許されるなら、スキンシップも有意義です。(異性に対しては控えるべきでしょう)甘えていれば、口調で分かるでしょう。甘えているなと感じたら、適当に突っ込む。「甘えているときは必ず突っ込む」のではなく、相手のムードをモニタリングしながら突っ込みます。時には突っ込みを笑いに転化するのも良いでしょう。笑いは人間関係の潤滑油。笑えば笑うほど関係は良好になります。

<トラブルを乗り越える>
しかし、相手がいるものですからハプニングはつきもの。機嫌が悪くなることも、爆発することもあります。そういうときのトラブルシューティングの原則は「平常心」です。
感情を爆発させ続けられる人間はいません。(岡本太郎とかは知りませんけど)感情の爆発は、必ずどこかで沈静化します。相手が爆発したら、基本方針は爆発に巻き込まれて自分まで誘爆しないように避けながら、相手の沈静化を待つことです。そして沈静化したところで、何事もなかったかのように振る舞います。
たとえば子供が突然駆け出し、家出してしまったとします。帰ってきたら、「おかえり」とか「よう、帰ったか」とか、いちばんノーマルな自分を出して、あまり大袈裟にならないように、拒否しない旨伝えます。家出という事件が起きたことを前提とした「ノーマル」ですから、いつもの帰宅時のように振る舞うというのではありません。(それでは気味悪がられてしまいます)必要以上に騒ぎ立てず、詰問せず、以前のように貴方を受け容れます、というメッセージが重要です。保護施設・更正施設から逃げ出したのなら「それで、またここに戻ってくれるのかな?」何日間もいなくなっていたら、「いろいろ、大変だっただろ」といったところでしょうか。かけるべき言葉は、人により場所によって異なります。
ポイントは、そうして「おまえが何をしようが俺は変わらないんだ。おまえにその気があれば、俺はおまえを受け容れてやる」というメッセージを伝えることにあります。「おまえ次第だ」というメッセージにも意味があるかも知れません。「おまえが嫌なら俺はうるさいことを言うつもりはないんだ。俺には関係ないことだからな」というメッセージを伝えることで、子供は押しつけがましくない空気に好感を持ってくれるでしょう。
そんなに突き放してしまって大丈夫か、と思われるかも知れませんが、そこは腕次第。受け容れるムードを示す際に、大きく手を広げてやればいい。「おまえが上手く行けば、俺としても嬉しいよ」というのも、忘れてはいけない重要なメッセージです。そういうところで、暖かみを示せば、つながりは保てるでしょう。
そして、どんなに爆発しようがめちゃくちゃを言おうが、それを無視するわけでもなく、かといってそれで怒ったり叱ったりするでもない、泰然と、やはりそこにいてくれる、そんな雰囲気を示せれば、子供は次第にその人を深く信頼するようになるでしょう。この信頼は、もはや対等ではありません。どんなに自分が騒いでも受け止めてくれる、大きな存在に対する信頼です。決して甘やかすこともない。間違いは間違いとして指摘する。しかし叱りつけてきたりはしない。ただ、的確な意見をくれる。いつでも自分を認めてくれて、しかし甘やかしはせず、厳しいことも言うけれど、苦しいときには優しく励ましてくれる。そのような人がいる、というだけで、だんだんと心の傷は癒えていくでしょう。依存させない工夫が難しいところですが、そのへんは用心して距離をとりつつ、しかし意識に行き違いが生じないようにします。「俺はいつまでもおまえの面倒を見続けるわけには行かないんだから、これ以上頼らせるわけにも行かないよ」とハッキリ伝えてしまうのが良いかも知れません。相手が理性的に話せる時を選んで伝えることは大前提です。

<自信をつけさせる・問題意識に転化させる>
自分の能力はこれくらいと思い込むことで、自分の能力の限界を引き上げる努力を怠るのは、人間誰しもやっていることです。限界まで頑張っている人はいません。また、恐らく限界まで頑張る必要もない。しかし、心に傷を負った人は、しばしば自分の能力をあまりに小さく見積もりすぎています。翼を拡げることを忘れてしまっているのですね。そこで、ある程度精神的に上向いたら、自信を取り戻させます。方法は大別して二通り。上手く誘導して成果を出させることと、成果はなくとも「オマエはできる、できる、できる~」と暗示にかけること。理想は前者ですが、これはなかなか難しいので、後者の暗示と併せて使います。年中才能があることを前提に話をされたら、自分は無能と信じ続けることは難しいものです。それこそ意志力がないと無理です。自信がつけば、ひととおり社会で上手くやっていけるようになるでしょう。
さらに悩みを問題意識に転化させることができたら、大成功です。悩んでいたことには原因があるはず。その原因がこの世からなくならない限り、若者は悩み続ける。君のような苦しみをこれ以上経験させないために、君にできる事を考えたらどうか、というわけです。臨床心理士を目指すも良し、教育者を目指すも良し、社会学者になって社会政策を論じるも良し。これはエリートコースですね。悩み荒れているところから、ここまで持っていくことができます。

自信や問題意識までは、なかなか難しいでしょう。しかし、子供に対して適切な距離をとり、子供をしっかり受け止めることができれば、その子にとってはそれだけで十分に大きな助けとなるでしょう。それで自分が悩んだ経験を頼りに、自分の子供や周囲の後進達のよき理解者になれれば、素晴らしい事だと思います。


※最後に、ここに示したのはある程度以上社交性の高い、社会性のよく身に付いた子に対してのみ有効な方法であることを申し添えます。手癖が悪くて万引きが無くならない、警察に捕まってもヘラヘラしているといった子には、さらに強烈なアプローチが必要でしょう。ただ、正直私にはそこまではできません。私はどちらかといえば甘い人間です。自殺未遂・リストカット・薬品の過剰摂取(オーバードース・OD)等の状況には、有効でしょう。
家庭教師を雇うことを前提とする場合、どうすべきでしょうか。

個人的な「つて」がある場合は別ですが、通常は家庭教師を雇うとなれば、家庭教師派遣業者に頼むことになるでしょう。私は今まで4社を通じて家庭教師をしてきましたが、そのうち3社「東大家庭教師友の会(以下「友の会」)」「家庭教師の東大ネット(以下「東大ネット」)」と「家庭教師のABEL(以下「ABEL」)」が、なかなか良心的ではないかと思っています。一方、もう一社は大手でしたが、非常に不愉快な思いをし、二度とその企業を通しては家庭教師を請け負わないつもりでいます。

これら四社を例にとって、家庭教師派遣業者がどのように家庭教師をご家庭に派遣するか、見てみましょう。
まず教師として働きたい人が、家庭教師派遣業者に応募します。企業は通常、最低でも面接くらいは行います。また試験を課す企業もあり、私が応募した大手企業は面接+試験でした。
もっとも、この面接と試験というのは、かなり簡単なものです。試験は10分間程度で終了(一教科十分ではありません。それで全て終了です)し、面接は企業システムの説明が中心で、教師の能力や人格を審査するといった性質のものではありません。よほどワケのわからない人は落とすのかも知れませんが、基本的に応募したら即採用です。

さて、ご家庭が家庭教師の派遣を依頼します。企業はご家庭の希望に合致する教師を捜し、教師に指導できるかどうか、問い合わせます。私が登録していた大手企業は、突然電話をかけてきて、これこれの地域に何年生の子がいるが教えられるか、と聞いてきます。
注意すべきは、「女性がいい」「理系がいい」といった希望は取っても、教師の能力や性格のマッチングはほとんど考慮しないということです。基本的に、地理的に可能な教師を紹介する、という以上のことはしません。基本的に、教師の質は保証されないということです。
教師は指導開始前にもういちど企業の面接を受け、それからご家庭に赴きます。はじめの訪問は採用試験の一環と位置づけ、給与・交通費は要求しないのが一般的だと思います。ただし企業はこの時点で既に紹介業務を開始していますから、紹介料はこの時点で発生するでしょう。紹介料を一回払うと、何名かと面接し、一名(数名?)と契約する権利が得られる、というのがフェアな契約ではないかと思います。初期費用を払っても一人しか面接できないとしたら、上記の通り教師の質が保証されない以上、良い契約内容とは言えません。私が良心的と感じた「友の会」は、初期費用として5000円程度を請求していたようです。企業側が数名の教師候補者と比較的丁寧な面接を行い、OKと判断したらご家庭に電話で「これとこれとこのような教師がいるが、どうか」と紹介し、ご家庭による教師の面接へという流れです。

この教師でよい、とご家庭が納得したら指導が始まります。指導は教師と生徒の一対一で行われます。が、恐らく通常はその他に派遣業者とご家庭を繋ぐパイプが用意されています。月に一回指導報告書が郵送されたり、企業から社員が面談に来たり。同時に家庭教師も派遣業者に月一回説明に行ったり、指導報告書を提出したりします。
私が経験した大手企業の問題は、いくつもあるのですが、まず中間マージンが恐ろしく高かった。50%近いマージンを取っていました。マージンを取る根拠は、企業が教師と家庭の間に入って調整役を務めることです。そのような仕事をするからこそ、企業は一定の料金を要求する権利がある。しかし、この大手企業の調整役とは、随分お粗末なものでした。毎月教師に遠くの事務所まで報告に来させ、しかしルーチンワーク的な面接しか行わず、教師が受験情報など何らかのサポートを求めても何もありません。
そもそもこの企業は、社員の対応がきわめていい加減でした。企業から教師への説明も曖昧で、給与についての説明が社員毎に異なる・充分な説明抜きにキャッシュカードやETCカードを作らせる等ひどい対応が目立ち、さらにご家庭に月一回出向くはずの社員がご家庭との約束をすっぽかし、夜の7時の約束だったのに10時に出向き、あげく十分な謝罪をしなかったとか。家庭教師業界大手の一社がこういう始末だということは、声を大にして言いたいところです。家庭教師派遣業者に頼むなら、事前に企業の評判をよく調べることをお薦めします。

さて、では「ABEL」と「友の会」「東大ネット」はどのように良心的なのか。
「ABEL」は中間マージンを一切取らない業者です。そのかわり紹介料がやや高いようですが、教師との面接は何人でも可能で、事前にメールのみで教師に対して質問することも可能。登録教師の情報はすべてネット上で閲覧可能で、その中から好きな教師を選べます。インターネットを活用して、コストを徹底的に抑えて合理的な教師紹介を行っているといったところです。低コスト志向であるため、教師とは一切の面接を行わないなど「教師の質を保証する」という側面は何もしてくれませんが、そのぶんご家庭がきちんと自分の目で教師を選ぶことを保証しています。なお指導料は教師自身の自己申告制で、教師毎に異なります。
「ABEL」に問題があるとしたら(初期費用しか取らないので、当然といえば当然ですが)最初の紹介以外は何もしてくれないことでしょう。それでも信頼できる教師と巡り会えれば問題ないとお感じになるかも知れませんが、まとまった指導報告書のような物が無いというのは、子供の成績がなかなか上がらない場合、かなり不安になるものです。その点、「友の会」は毎月指導報告書をまとめてくれるので安心できます。その分中間マージンは取りますが、20%と大手企業と比べれば断然低率です。また教師は指導報告をインターネットを介して提出すれば良く、合理的な運営が為されています。教師との面接を比較的丁寧に行っている、教師に対してセミナーなど技能向上の機会を与えている等々、全般に良心的です。指導料は、東大生の場合で時間あたり3500円、うち教師の給与は2700円となっています。「東大ネット」はほぼ同じシステム、料金を採用していますが、教師への給与額が案件内容に応じて変化します。全登録教師に届くメーリングリストに、登録教師の成功経験を毎月数件掲載し、全登録教師に経験をフィードバックしているのが優れた点で、講師の質の向上に取り組んでいる様子が見えます。両社とも、事務の対応は丁寧です。

家庭教師を名乗って教育について語る者として、もし家庭教師を雇うおつもりの方がいらっしゃいましたら、この三企業をお薦めします。またいかがわしい企業もいることを忘れず、よく調べてからご相談ください。
勉強させる上で、家庭教師という選択は、正直どうなのか。私は家庭教師をやっていますが、かなり問題含みの教育形態だと思っています。

まず家庭教師という選択そのものについて。
家庭教師はどうしても学生のアルバイトが中心になります。一人の学生がみる教え子の数は、良くて二三人、多くの場合は一人でしょう。学生は、よほど特別な例外を除けば、良い教育者たり得ません。もちろん経験不足だからです。たとえ非常に賢い学生で、教え方に理論を持っていて自信があっても、やはり経験が無いと教育は勤まりません。人間を相手にしたら、さまざまなハプニングがつきものです。その処理には、やはり経験がモノを言うからです。
そんな家庭教師に支払われる時給の平均は2000円弱~3000円強、といったところでしょう。(東京の場合)在学校名などにより幅があります。またご家庭の出資金額は3000円強~5000円弱、といったところでしょうか。両者に差が生じるのは、家庭教師派遣業者が中間マージンを取るためです。かなりのマージンを取られる場合もあります。私の考えでは、学生アルバイトの素人家庭教師に払ってよい時給は、大学名を問わず2000円前後といったところだと思います。通常のアルバイトの時給は1000円前後が相場でしょう。いちおう技能職だから、飲食店やコンビニバイトよりは多く払ってもいい。500円プラス。加えて勤務時間を稼げないから、単位時間あたりの給与は少し弾んであげる。500円プラス。加えて、もし学生が誠意を込めて一生懸命教えてくれるなら、学生さんの勉学と生活を応援してあげる意味も込めて、ちょっと昇給してあげても良いかもしれません。これで週二時間面倒を見させてもらえば、なんとか勉強熱心な学生も授業料と生活費以外は親御さんに頼らずに大学生活を送れるでしょう。東大生だからといって3000円払う意味は無いと思います。家庭教師は、概して高すぎるのではないか、というのが正直な感想です。

そんな家庭教師を雇う意味はどこにあるのか。家庭教師ならではの良いところは何か。
家庭教師を雇うご家庭の多くは、塾だけでは思うように成績が伸びないので、最後の手段として家庭教師をお雇いになるのでしょう。しかし、既に述べた通り、通常の学生アルバイトは教育に関しては素人です。残念ながら、特別な僥倖がない限り、ドドンと成績が伸びる事はありません。
ただし、家庭教師でなければできない指導というものは、確かにあります。例えば、塾のような大人数指導では、生徒ひとりひとりは「先生が自分を見ている」という感覚を持てない場合があるでしょう。授業が他人事になってしまう。それが勉強できない原因であれば、家庭教師がぴったり付く事で解決されるかもしれません。
また、家庭学習の際に、親御さんがご指導を担当されると、期待感からどうしてもプレッシャーをかけてしまうという問題があります。お子さんも親御さんとはあまりに関係が近すぎるので、その視線が気になり過ぎるという問題もあり、親子で勉強すると、概して空気が感情的になってしまう傾向があります。これが原因でお子さんが勉強嫌いになっている場合、家庭教師が他人ならではの冷静さで指導を担当する事で、「先生になら勉強を見てもらっても良い」という気持ちになる事もあります。これだけではまだまだ成績向上には結びつきませんが、それでも勉強嫌いが部分的にであれ改善されれば、めっけ物です。
これくらいなら、素人家庭教師でも熱意さえあれば達成できます。うまくすれば、一生懸命生徒のためを思う先生の姿を見て、生徒が他人に対する信頼感、自分が誰かに期待を寄せられているという充実感を持てる場合もあるかもしれません。成績向上に繋がらなくても、熱心な家庭教師に見てもらえれば、ある程度のプラス効果は期待できるものです。

それから、ちょっと賢い学生であれば「個人と個人の関係だからこそ、本音を言える」というメリットを活かせるかも知れません。勉強が嫌いな子の中には、「どうして勉強なんかしなきゃいけないの?」と聞いてくる子もいます。しかし、これにサッと答えられる親御さんがどれだけいるでしょうか。親御さんが子供に勉強しなさいと要求する場合、その論拠はだいたい不明確なものです。「勉強しなきゃ駄目だろう」という言葉には、いくぶんか嘘が混ざっているものなのです。子供はそれを鋭敏に感じ取ってしまうが、塾のように多くの子がいる場で、この問いに対して思い切った答えを投げかける事は難しい。この手の「大問題だが、答えを大きな声では言えない」問題を、一対一の関係であればしっかり答えられます。家庭教師自身がつい最近までこうした問いと戦って来た人であれば、説得力のある答えも出せるでしょう。生徒が少し頭の回転のいい子であった場合、こうしたマッチングが生徒のやる気をグンと引き出す可能性はあります。

私自身は今までに8人(短期間の受験相談を含めれば12名)の生徒の指導を担当し、一応プロである、という自負を持って仕事をしています。(あまり精神的に強いたちではないので、しょっちゅう自信を失っているんですけれど 苦笑)世の中にはプロ家庭教師を名乗る人が、ちらほらいます。ではこの人たちはどうか。
まず腕前ですが、プロを名乗る以上は過去にある程度の経験があるのでしょうから、素人ではないかという心配は、とりあえずあまりない、という事にしておきましょう。しかし、だから技能があるかというと、はっきり言って分かりません。なぜなら、家庭教師とは評価される事の少ない業態だからです。
家庭教師は小さな個室で生徒と一対一で向き合います。そこで教師がどれだけ熱心に指導しているか、あるいは怠慢を決め込んでいるか、なかなか分かりません。またその先生の指導によって生徒の成績がどこまで伸びたかも、その家庭内から外へ情報が流れる事も少ない。さらに家庭教師は一人を丁寧に見る職業ですから、その教師が見て来た生徒の情報をすべて集めたとしてもサンプル数が少なすぎる。家庭教師派遣業者も、教師の指導実績をまとめるような面倒な事はしてくれません。ただ近くに住んでいる教師と生徒を引き合わせるだけです。だから、この教師がどれだけの能力を持っているかと、判断する基準がないのです。
この人々に対して払う時給ですが、某大手派遣業者が教師向けに配布した「プロ家庭教師募集!」のビラには「時給一万円以上」という文字が踊っています。ご家庭には更に上乗せしてマージン分が請求されますから、これはとんでもない請求額です。お金持ちの子弟向けの制度に他ならない。これはこれで、経済水準によって受けられる教育のレベルが変わってしまうという倫理的に問題のある制度となります。
別のある教師は、個人的にホームページを開設して生徒を募っており、時給は4000円を指定しています。大手派遣業者が派遣する学生アルバイトでも、業者は3000円台半ばくらいの金額は請求しますから、これならお得かもしれません。
しかし、プロのプロたる所以は生徒の成績を劇的に向上させられる点にこそあるといえるでしょう。つまり生徒の成績を上げられないなら、いくらプロだろうが経験豊富だろうが、素人の学生アルバイトと何ら変わらない。そうであれば、プロ家庭教師の給与は「基本給与は学生アルバイトと同水準2000円、ただし所定のレベル以上に生徒の成績が向上したらボーナスとしてこれこれの額を」という形式であるべきではないかと個人的には思っています。たとえば週2時間ずつ半年の指導、計52時間の指導で偏差値を30から60に上げると考えて、プロとしてほしい時給が4000円であれば、(4000-2000)x52=104000ということで、指導開始時の時給は2000円、偏差値15向上で3万円、更に15向上したら7万のボーナスをお願いします、等といった形がフェアではないか。しかし、このような複雑な料金体系はご家庭にとってもなんとなく取っ付きにくい印象を与えてしまうでしょうから、採用しにくいのが現実です。現状では、プロ家庭教師が仮に大した事がなくても、高い給与を払わねばなりません。

こんなプロ家庭教師ですが、本当に力のある教師なら、塾などでは不可能な細やかな指導を行う事が可能です。
第一に、その子が本当に理解できる特化した指導法を探し、実践する事ができます。以前私が経験した事例では、なかなか勉強のできない小学生が、説明にイラストを導入したところ、急に熱心に説明を聞き始めた等という事がありました。見る間に理科の計算問題を克服し、算数も苦手意識を駆逐していきました。意思が未発達で情緒に流されやすい小学生くらいの子供は、大人が思いもよらぬ切っ掛けで勉強に熱を入れ始めたりするものです。しかし、こうしたその子に特化した指導法は、多くの子に同時的に教えていかねばならない塾などではできない事です。
第二に、解答過程を隣で見つめ、時系列情報込みの分析が可能だという事が大きいでしょう。生徒がある種の問題を苦手としていた場合、なぜ苦手かを分析するのに、答えだけ見ていたのでは不足です。よくよく考えれば(ははぁ、最後に2で割るのを忘れたな)(これは解の方程式のプラスとマイナスを逆にして覚えているな)などと気づける場合もありますが、概して情報不足です。解答過程を見る事ができれば、この問題はかなりの部分解決します。どれだけ正しい式が書けているか、記入されている公式に間違いはないか、細かく分析できます。しかし、その解答過程を傍らに付いて見つめていれば、更に細かいフォローが可能なのです。どの段階で何分時間をロスしているか、正しい解法を書いたのに、自信が無いためにそれを消してしまっていないか、図を活かせていないのではないか、問題文を読み直すべき時に、それができていないのではないか、特定の状況にぶつかると急に集中力が散漫になるような傾向がないか、文章題を解釈できているか、式変形は正しいか、計算速度は十分か、行き詰まった時のリフレッシングは得意か下手か等々、更に更に多くの情報を得て、その子の癖と隠された長所を探し出し、説得力のある褒め方をし、修正すべき点をピンポイントで指摘できるのです。小学生くらいだとこれは特に効果があります。小学生くらいだと、大人には思いもよらぬような能力のアンバランスを抱えている事が、しばしばあるからです。算数が大の苦手という子が、よく観察すると計算の処理だけは異常な神速を誇っていて、東大生の頭脳でも到底及ばなかった(笑)などというエピソードもあります。
第三に、第二点と重なりますが、優れた教師は多くのエピソードから、その子の性格傾向を読み取って適切な指導計画を立てる事ができます。このためには、些細な言葉尻からもその子の性格を読み取っていかねばなりません。多くを相手にしていたのでは、そう細かに一人の子に注意を集中しているわけにはいかないものです。例えば、ある子はテストの点が悪かった時に、今回自分ができなかった理由に付いて自分の考えを述べ始めました。注意して見ないと、「よく自己分析できている。頼もしい子だ」と思ってしまうかもしれません。が、よく見れば、その自己分析を述べる間、視線が宙をさまよっています。これは自信がない証拠です。また、よくよく聞いていれば、一つの理由から他の理由へと話題が移るあいだが、妙に短い。急いで話題を継いで見せるのです。これは相手に喋らせない工夫です。要するにこの子は、テストの点が悪いと怒られるので、怒られないために先手を打って自己分析してみせている。テストはできない代わりに、自己分析というパフォーマンスで叱責を回避しているに過ぎないのではないかという疑いがあるのです。だったら、叱責に対する恐怖を取り除いて精神的に安定させる事と、見せかけの自己分析はやめさせて、本当に現状を打開できる対策は何か、生徒といっしょに考える必要があります。自己分析できて偉いね、などと、偽わりの安心感を与えてはいけません。子供は叱責に対する恐怖を抱えたまま、いつまでも自己分析に逃げ込みつづける事になるでしょう。
小学生くらいだと、勉強ができない悔しさから泣く子もいます。涙をぽろぽろこぼし始めたら、勉強はもうやめにして、穏やかに自分を信じ続けようねと語りかけます。これも、大人数を相手にしていたらできない事です。

多くの親御さんは「塾はペースが速すぎてついて行けない」という理由から家庭教師を雇われますが、実はこれは無駄です。なぜなら塾とてむやみにハイペースで勉強を教えているのではなく、これは必要なペースなのです。それを遅くしたとして、週二時間しか来てくれない家庭教師が、どこまでフォローできるか。なかなかできるものではありません。
その代わり、本当にプロフェッショナルの家庭教師であれば、上記のような細やかな分析から、なぜ塾の速度について行けないのか、その原因を特定し潰す事で、塾の速度について行ける子を育てる事ができます。これこそが家庭教師の本当の利点です。

とまれ、一言でいえば家庭教師を雇う事の善し悪しは「良い家庭教師に巡り会えるかどうか」この一点にかかっています。良い先生に巡り会えれば、相当な教育効果も狙えます。しかし、とんでもない悪徳家庭教師が混ざっていたとしても、それを摘発する事はできない。これが家庭教師業界の現状なのです。
明日は家庭教師選びについて、具体的に述べましょう。ただ、残念ながら完璧な解決策は存在しないというのが現実だと思います。


なお、最後にもう一つ。

どんなに優れた家庭教師でも、否、優れた家庭教師だからこそ、往々にして陥る問題があります。
それは「子供が家庭教師に依存してしまう」という問題です。
何か困ったことがあっても、先生が解決策を探して来てくれる、先生が成績を上げてくれると思い込んでしまうと、真の学力、更にいえば真の知的能力は育ちません。そんな勉強をしていたら、ほんとうに受験に強くなるだけで、人間関係や社会に出てからのビジネスに活かせる問題解決能力、自己分析能力は身に付きません。注意したいものです。
以前、志望校選びに関して記事を書きましたが、その際以下のようなコメントをいただきました。

 本人の意思を尊重しつつ、もっと広い視野から見た
 選択肢を提示するということ、本当に大事だと思います
 でも、実際には、難しいんでしょうね

その通りなんですよね。本人の意思を尊重しつつ、大人のより広い視野から選択肢を提供する。大切だけれど、とても難しい。子供の意志がはっきり示されなかったり、あまりに選択が子供じみていたりして、結局は親の言うことを聞かせるような形になってしまうのではないでしょうか。

でも、なぜそのような事になってしまうのでしょう?

これが本日のテーマです。子供の進路選択において子供の意志を尊重するのがなぜ難しいか、考えたことはありますか? 考えれば、すぐに分かることです。つまり子供の意志が曖昧すぎ、視野が狭すぎるので、尊重しようにも、結局は大人の意見に従わせるような事になってしまうのです。裏を返せば子供に進路選択を迫る時期が早すぎるか、子供の意志発達、視野の拡張が遅すぎるか、どちらかです。多くの人は進路選択をする段になって、子供の意志がはっきりしないことに戸惑いますが、将来の一時期に子供がはっきりした意志を持っている必要があるのであれば、それ以前から積極的に意志の発達を助けるのが良いでしょう。
しかし、子供の意志発達を助けると言っても難しい物があります。そもそもどうしたら意志が発達するかが分からない。私も確実な方法は見つけていません。ここでは、考えられる方法をいくつかご紹介しましょう。

1.読書を勧める
古来より心の発達には読書がいちばんとされます。よほど誤った本の選択をしなければリスクも小さく、手軽な方法と言えるでしょう。本を自分で買い求めるようになれば、しめたものです。また本にも様々なジャンルがあり、小説が好きな子も論説文やルポルタージュには手が出ないというような場合もあります。このような場合は、適宜新しいジャンルの本を与えて、読書の手を広げる指導ができると理想的です。
ただし、この方法は効果が薄いのではないかと考えられます。そもそも本が嫌いな子には、この方法は使えませんし、本を読んでいても、理解し味わえているとは限らない物です。小さい子になると、「本を読む」という行為自体を楽しんでいるだけで、中身は頭に入っていないなどという可能性もあります。あまり頼り過ぎない方が良いと考えます。

2.実経験を積ませる
本を読むことより、むしろこちらが重要だと思います。自分で経験をし、その経験を重ねてこそ本は深く味わえる物で、実経験の乏しい子がいくら本を読んでも、本の虫が出来上がるだけです。
とくに痛い目に遭った経験が効果を持ちます。あまり深い心の傷を残したり、長期にわたって心を蝕むようだと困りますが、失恋などは非常に良い経験になります。他人が理不尽に痛い目に遭っているのを見聞きする経験も有意義です。義憤や社会悪への意識は、社会性を伴った心の成長に預かるところ大でしょう。なお他人が理不尽に傷つけられることについては、書物を通じて読むことも充分有意義だと思います。ただしこの際、社会悪から目を逸らさない強さが既に出来上がっていないと、怖がって目を背けるだけで終わってしまいます。
この方法が危険なのは、やはり強すぎる経験によって幼い心が取り返しのつかないダメージを受けてしまう可能性があるということです。長期にわたって経験が持続すると、特に危険が増大します。しかし有効なことではあるので、頼らないというわけにはいきません。多分に偶然に左右されるものですから、意図的に経験させるというのも難しいのですが、基本的に社交性を失わせないことが、様々な経験を積んでいく原動力になると思います。親に甘える傾向が強いようなら、小学生くらいの段階で意図的に突き放すなどして、自立を早めます。サークルなどの運営に積極的に関わる子は安心です。また親がなにもかも面倒を見るのではなく、幼いうちから家事の一部を担当させるなどの方策も有意義でしょう。怪我や事故の危険についてはよく監督する必要がありますが、転んで膝をすりむいたり、指先をちょっと包丁で切るくらいは良い経験のうちと考えましょう。無傷で育てようという感覚が、子供の経験不足を引き起こします。

3.自分で責任を持ち、自分で意志決定して行動する機会を与える
これも経験の一種という事もできますが、特に重要だと思うので別途コメントします。頼るものがある間は、人間は甘えてしまい、なかなか成長しないものです。ですから一人で放り出される経験、責任を負わされる経験は有意義です。自分より目下の、小さい子や後輩の面倒を見る経験も大きくプラスに作用するでしょう。こうして「自分が行動する」という意識が涵養できれば、社会悪を目にした際にも、単に怖がるだけではなく「自分が行動してこれを解決できないか」という発想ができるようになります。
この方策の問題点は、失敗したらどうするか、という事です。自分で意志決定して行動した結果は、彼が責任を持たねばなりません。すると責任を持ちきれないことを任せるわけには行かない。全ての危険を避けることはできませんし、ある程度失敗して学ぶことも期待されているのですが、この行動によって彼はどんな責任を負うことになるのかは、大人がよく目を配っておく必要があるかも知れません。
総じて、小学生には家事をやらせることが、中高生には部活動が、高校~大学生にはアルバイトが、良い経験になるのではないかと思います。尊敬に値する先輩と面倒を見るべき後輩に恵まれて、子供は育ちます。こうした経験をそれぞれの段階で積み上げていてこそ、いざ選択するときに、尊重するに足る「子供の意志」が醸成されます。

私の感覚では、個人差はあるものの小学生には志望校の選択や受験の是非についての選択は難しく、子供に自主的な選択を要求するのは、せめて中学二年時、高校受験から、と考えています。しかし、公立中学は環境が悪い、といった可能性もあります。そういう場合は、ある程度親が決めたり、誘導尋問臭くなってしまっても親の意志が優先するような形で、一応本人の意思も確認して決定する、といった形を取るのも仕方がないでしょう。また、そのようにして子供の進路を決めてしまっても、子供は自分の意志を確立した時点で、いくらでも自分の針路を修正し、再決定できるのです。神経質になりすぎるのも、考えものです。


最後に、一点だけ補足を。

この文章は「意志が明確で自分の判断を自分で下すのがよい」という前提に基づいて書かれていますが、これは必ずしも言える事ではありません。そもそも人間は必ずしも明確な意志に基づいて自分の進む道を決定していくものではなく、なんとなく、で決定することも多いものです。むしろそれが自然です。そして、それでも結構幸せにやっていくことはできます。
ただし、明確な意志というものは、何らかの悲劇に直面したときに、それに立ち向かう強さを与えてくれます。悲劇はいつ襲ってくるか分からないものですし、そういう強さを持った人が1人でも多ければ、その人に頼ることで立ち直れる人もいるかも知れません。そういう理由で、私は自分の教え子に対しては、明確で強固な意志を持つことを求めます。
忙しいから更新はお休み……と思っていましたら、TBステーションに面白いテーマが立っていたので、これで書くことにしました。ありがとうTBS。(こう書くとテレビ局みたい)TBするのは「出産・育児」ジャンルのテーマ「子供の進路」です。私は子供はいませんが(当年23歳!)家庭教師としてご家庭の学校選びに助言することはありますから、その辺の話をヒントに少々書きます。
さて、まずはTBSの募集文を引用しましょう。

 今回は親御さんにとっては少し頭の痛い子供の進路の問題。
 選択肢は2つ、公立にするか私立にするか。進学率の高い
 私立で安定した教育を受けさせるか、進学率はそこそこでも
 のびのびと育てるか。進学率よりもかかる費用によって公立
 私立を決める人もいます。とある調査によると、小中高大
 まですべて公立で通すと総額約1018万円、オール私立
 だと2327万円かかるとのこと。もちろん「公立+公立+
 私立+公立」などの組み合わせもあり、一概に二分はでき
 ませんが、1018万円を下限、2327万円を上限に公立
 私立をどう組み合わせるか。その他に、お金や進学率のこと
 よりも通学の便の良さとか校風などから学校を選択する人も
 います。
 みなさんは子供進学についてどんなプランを立てていますか?
 学校を選ぶときに重視することなどをトラックバックで寄せ
 てください。

残念ながら、費用については、家庭教師からアドバイスできることはあまりありません。「公立と私立、どちらを選ぶか」「交通の便・校風」の二点について書きます。

「公立vs私立」についてですが、まず「進学の私立vsのびのびの公立」という構図は成り立たないという点を指摘しましょう。確かに私立進学校の方が、教えられる事の量は多いかもしれません。勉強に割く時間も多くなるかも知れません。しかし、子供が学校でのびのびできるかどうかは、勉強時間だけで決まるものではありません。勉強以外でも人間関係(中学~高校では、大人には無い人間関係のイザコザがあります)で苦しむ事もあるでしょうし、勉強だって自分が好成績を取っていたり、勉強に面白さを感じる事ができれば、のびのびと勉強する事もできるという道理です。
そこで、子供に学校生活をのびのびと楽しんでもらうには、どうしたら良いか。そのために学校選びをする、というのも良いのですが、のびのびと学校生活を送れるかどうかは、至近距離にどんな友人知人がいるかにかかっているのではないでしょうか。だとすれば、いくら学校の情報を集めても無駄な事で、たまたま入った学校で良い友達を見つけられるかどうかが問題だという事になってしまいます。
逆に言えば、良い友達を見つける能力があれば、成績がどうであれ、入った学校がどこであれ、のびのびとした学校生活を送れるという事になります。そのためには、自分をしっかり確立する事、そして多くの人間関係に連なる事が有効だと、私は思います。自分をしっかり確立できていないと、周囲に流されてなかなか落ち着けません。周囲の友達もまた落ち着かず、ちょっとした言葉や振る舞いで友達を判断してみたり、お互いの目を気にしたり……という環境にいると、何かと苦労の多い学校生活になるでしょう。多くの人間関係に連なるのは、それだけ良い友達を見つけられる率が上昇しますし、一つの人間関係において困難にぶつかっても、他の人間関係が安全装置の役割を果たして、孤独にならずに済むので、精神状態の安定に有効です。
もっとも、のびのびしていれば良いかというと、そういうものでもありません。一生のびのびと生きていけるのなら問題ないでしょうが、人間は悩み、苦しんで成長していくという面もありますから、適度な緊張は、むしろあった方が良いと私は考えます。それに負けてしまうと辛い事になりますが、ある程度は困難な状況に直面して、しっかり鍛えた方がよい。
つまり、「のびのび」という点については、あまり神経質に選ばなくても良いんじゃないですか、というのが私の考えです。あまりにひどすぎる環境だけ避けて、あとは他の判断材料で、あるいは「えいやっ」で決めてしまう事をお勧めしています。

さて、私は家庭教師として、子供の成績を上げて有名私立中高、ないしは有名私立・国立大学に合格させるのが仕事です。しかし、私の考えは「人間には成績より大切なものがある」という事なので、とにかく良い学校に入れりゃいいんだ、とは考えられません。この辺りについては、以下のように考えています。

1) 確かに、難しい学校に入らねばならないという理由は無い。
2) ただし、好成績を要求する学校で得られるものは、決して成績だけではない。本当の成績優秀者というのは、勉強だけではなく様々な活動に積極的であり、勉強にとどまらず豊富な才能を開花させて活躍する。活躍している仲間が周囲に多ければ、その影響を受けるものだ。従って難関中学・高校・大学に入る事には、勉強を抜きにしても意味がある。
3) 社会一般に、高学歴者を尊重する視線がある(その裏返しとしての反発や蔑視も勿論ありますが)現状では、子供の自己評価が低くならないためにもある程度の難関校に入れる事には意味がある。
4) 人間性を陶冶するのはいいが、やはり将来食べていけなければ困る。学歴社会はこれから崩れていくだろうが、それが完全に崩れ去るには、まだ時間がある。勉強より大切なものを学び取った子供には、ぜひ勉強も学び取って、将来の収入を確保し、また将来社会を良い方向に変える力をも身に付けてほしい。

もちろん、難しい学校に入って、勉強について行けずに苦労する事もあるかもしれません。しかし、それはあくまで可能性です。入学後に苦労する可能性なら、どの学校にだってあります。成績的に難しい学校を敬遠する理由にはならないと思います。
(なお、実をいうと私は「受験は高校からで十分」「中学受験のために小学生を塾に通わせる必要は無い」という考えの持ち主なのですが、そうは言っても公立中学があまりに荒れているようだと、それを避けるために中学受験、という事になってしまいますね。このへんの問題については、私も結論を出せずにいます)

学校選びは、もっと別の視点から行うべきと考えています。たとえば交通の便は重要です。満員電車で長距離を通わねばならないとなると、その分の時間を毎朝毎晩何年間もロスする事になります。空いている電車なら本を読めますから、場合によっては読書習慣が身に付くのを助けることになり、かえって良いでしょう。(もちろん、電車内をダラダラ過ごすこともあるでしょうが)
「校風」というのは学校の選択理由としてよく挙げられますが、この言葉が問題なのは「校風とは何か」という事でしょう。漠然としすぎている。私は、以下のような点に着目して学校全体の雰囲気をチェックしてみてはどうかと思います。

1) 通っている生徒たちに活力があるか。楽しそうか。
2) 先生方は教育に熱心に取り組んでいるか。一人でも親身になってくれる先生と出会えそうか。
3) 設備の奇麗さで誤摩化していないか。設備は金さえかければ用意できるが、設備だけで教育はできない。設備に騙された生徒が授業料を払ってくれれば、それでよし、という学校もある。

もっとも、なかなか調べづらいところでしょうから、むしろお子さんの方で良い先生を捜し出し、ともに楽しい学校生活を送れる楽しい仲間を見つけるつもりでいた方が、正解でしょう。
なお進学実績が急上昇している学校などは、現在の入試レベルが低くても狙い目です。中で先生方がそれなりの研究努力をしていると考えられますので、信頼できます。

あと、他に「共学か男子校・女子校か」という問題もあります。私は共学支持です。理由は簡単で、社会一般と同じ男女比で構成された空間で、異性というものにも慣れておかないと、後々頼りないからです。これも一概には言えず、もちろん男子校・女子校出身でも頼りないところなど無い、という人もいくらでもいます。しかし、私の主張として「本当の教育とは自立した人間を育てることであって、育つ生徒はすべてジェネラリストでなければならない」と考えているので、その一環として、生徒はある程度の環境変化にも自律的に適応できなければ困る。女子校・男子校といった特殊環境でいくら活躍できても、一般的な男女混成の組織において、人間関係の処理を含め適切に行動できなければどうしようもない、と考えています。まあ、ぶっちゃけた話をすれば、東大に入ってみて、有名私立中高一貫男子校・女子校出身者を見るにつけて、疑問を感じることが多かったわけです(笑)確かに面白いかも知れないが、どうも世慣れないというか、社会的にどうなんだ……という人が多いので、このような主張をするようになりました。(友人には何度も話している話ですが、入学したての5月頃にクラスメートの女の子とキャンパス内で遭遇し、声をかけたら、女の子は(どうしよう~~~)といった様子で、泣きそうな顔で後ずさりされたことがあります)いざというときに、相手が女の子だから、男の子だからと戸惑っているようでは、実社会に出てから困ってしまいます。まあそれくらいなら被害も少ないですが、そういう常識が欠落しているためにイザコザが起きる、性犯罪に巻き込まれるといったところまでくると、看過できない問題になります。
一応、知人の男子校擁護・女子校擁護の声も併記しておきますと、男子校出身者の言葉は「男子校の馬鹿なノリはほんと好きだし、かけがえのない楽しい時間を過ごしたと思うけど……まあ、偏るね(笑)」と、こちらは弱気発言。一方女性は「女子校だと男の子に頼らないから、すべて女の子が率先してやるようになって、そうなると女の子って意外とチームワークを発揮して凄い事やっちゃったりするから、面白い子が育つよ。まあ、偏るけどさ」と、こちらはそれなりに説得力があるようですが、偏る事は誰もが認めるところのようです。なお以前AERAの記事にも「女子校の是非を問う」といった記事がありましたが、その内容は私の知人の言葉をほぼ裏付けるものでした。すなわち「共学では男子生徒に頼ってしまい、女子生徒のリーダーシップがうまく育たない。女子校出身者には社会でリーダーシップを発揮する人が多い」といった内容でした。

さて、学校選びの参考になりましたかしらん。
「いまから学校に通うとすれば、ぜひあの人に先生になってほしいというような夢をトラックバックで寄せてください」

ということで、TBです。ちょっと遅かったのかな? とも思いつつ。

私には、尊敬する先生、目標とする先生は何人かいますが、それより「良い先生とは何か」を考えてみたく思います。
子供の面倒見が良くて、教科を教えるのもうまくて、という先生は、良い先生のように思えるでしょう。しかし、「教科を教えるのがうまい先生」というものについて、私は疑問を感じます。というのも、私は(学校が良い教科書を選んでくれたから、という事情もありますが)勉強は教科書を読んでしたし、周りの生徒が「あの先生はよくない」と言っている先生の授業でも、興味を持って耳を傾けることができたので、「先生が良くないから勉強ができない」というのは甘えじゃないのか? と疑っているからです。
もちろん限度というものがあって、人間的に間違った先生や、熱意のない先生では、こちらも勉強への興味が減退するかも知れません。また、一人で教科書を読んでもわからないという段階の生徒には、事細かに上手に解説をしてくれる先生が必要かも知れません。しかし、面倒見の良い先生に面倒を見てもらうことで、甘えの心が生じ、良い先生が教えてくれなければ勉強できないような生徒になってしまったら、これは過保護だと思うのです。教育とは、教育が必要な半人前を、教育の必要がない一人前に変える作業です。教育を受ける側が教育を施す側に頼ってしまうのは、もはや教育とは呼べないのです。

思うに、面倒見の良い先生や面白い先生は存在しても、「良い先生」つまりどこから見ても、どの生徒にとっても、完全無欠の良い先生というのは存在しないのではないでしょうか。生徒は、一人で歩けないときには、支えてくれる先生を必要とします。何とか立てるようになったら、距離をとって励ましてくれる先生を必要とします。すっかり一人で立てるようになったら、壁となって立ちはだかり、挑戦を要求する先生を必要とするのではないでしょうか。時には反面教師も必要です。人間的に間違った先生のもとで苦労することによって、人間的に成長することもあります。

私は中学時代の部活の先生に恵まれました。とても良く面倒を見てくださり、よい部活とはどういう物か、イメージを掴むことができました。それから中高一貫で高校生になり、同じ部活に居続けましたが、先生は前の先生がお辞めになり、新しい先生になりました。この先生も面白い良い先生でしたが、部活の面倒は、そこまで見てくださいませんでした。私は自立することを要求され、だいぶ失敗しましたが、多くを学ぶことができました。良い先生とは、時宜に適った先生のことです。生徒の状況に合致した、生徒がいま必要としている物を与える先生。それが良い先生です。良い先生とは、タイミングなのです。

……と、思うのですが、どうでしょうか。
TBステーションという物が意外と面白いことに気付き、連続TB。今回は「上手なほめ方」というお題。

「上手なほめ方」と言うと、なにかこれに従えば褒め上手になれるというテクニックがあるような気になりますが、私は自分の家庭教師としての教育も精神論から入るので、やはり「心」を作らないと、「技」も身につかないという立場です。逆に言えば、「心」さえできてしまえば、「技」は自然と磨かれていくので、枝葉末節のハウツーは、あまり勉強しなくても構わない。

<叱らない方法>
さて、上手にほめるための「心」ですが、それ以前に「叱りすぎないための心」が重要かも知れません。TBステーションの募集文も、

 みなさんは育児中、子供が「変なこと」をしたときに
 頭ごなしに叱りつけているというようなことありませ
 んか?
 「あれやっちゃだめ!」「これやっちゃだめ!」、気
 がつくとガミガミ怒ってばかりいたなんてこともある
 のでは?
 ちょっとここで深呼吸。叱りつけるのもほどほどにし
 て、どうやってほめてあげるかということを考えてみ
 ましょう。子供のいいところを見つけてほめてあげる
 こと、それが子供の能力を引き出す一番の方法です。
 エジソンだって手塚治虫だって、ほめ上手の母親がい
 なければ、あの偉業は成し遂げられなかったでしょう。
 さて、われこそはほめ上手という方、子供の能力を目
 いっぱい伸ばすためのほめ方をトラックバックで寄せ
 てください。

と、「上手なほめ方」がテーマのはずなのに、いきなり「叱ってしまう」ことが書いてあります。恐らく皆さん、「上手にほめられない」というよりは、「つい叱りすぎてしまう」でお悩みなのではないでしょうか。
これは自分の常識の幅を拡げることが有効です。子供が「変なこと」をして、「何やってるの、やめなさい!」と叫んでしまうのは、その子供の行動を「変なことだ!」と認識してしまうからです。自分の常識が狭いので、子供の行動がすぐに自分の常識からはみ出てしまい、変なことのように思ってしまう。そんな構造があるように、私は思います。
具体的な常識拡張方法ですが、いちばん簡単なのは「学者になってしまう」というものです。親御さんには、学者になっていただきたい。研究テーマは自分の子供です。子供のことは何でも分かっているなどと思ってはいけません。子供というのは、実にへんてこりんな物だという感覚を身に付けましょう。そして子供が何を考え、どういう基準に則って行動しているのか観察してみましょう。奇妙な行動を取り始めたら、その成り行きを興味津々見守ってみましょう。もの凄くヘンテコな事をしたら、すかさずBlogで報告です。興味深い研究事例は、研究者間で茶飲み話としてシェアするのです。
そうして子供の行動をよく観察していると、いくつもの効果が現れ、叱る回数が減っていくかも知れません。

第1の効果は、何はともあれワンテンポの余裕ができる、という事です。叱りすぎてしまう親御さんは、子供の行動を見た瞬間にカッとなって大声を出してしまい、反省は後から、というパターンになりがちです。しかし、とりあえず成り行きを見守る習慣が付けば、その行動に気付いてから、叱るという行動に移るまで、頭を冷やす余裕を確保できます。
第2の効果は、変な行動と思った物にも、ある程度の合理性が発見できるという事です。実際問題、子供というものは意外と合理的に行動しています。(ただし社会常識がないので、社会常識を前提として合理性を考える大人からは理解できない行動が多くなります。社会常識を子供と同レベルまで忘れてみると、子供が意外なほど合理的だと分かるでしょう)子供の行動が合理的だと気付けば、一定の評価もできるようになるので、頭ごなしに叱りつけて止めさせる、という事はなくなるでしょう。
第3の効果は、たとえまったく非合理的で、よろしくない行動だったとしても、そういう行動がしばしばある物で、よろしくないとはいえ、別段騒ぎ立てるほどのことでもないと気づけることです。小さい子供は汚いことをするものですし、学校に通う子供は勉強が嫌いなものです。
第4の効果は、最終的に叱ることになったとしても、子供の行動についての研究蓄積によって、どこをどう叱るべきなのか、本質的な問題は何なのか、的確に把握して効果的に叱れることです。勉強をしない子が、危機感が足りないから勉強しないのか、危機感は持っているが面倒なことからは逃げてしまうのか、意識がどうなっているのか、分かっていれば、どこを直すべきかも分かるでしょう。

<上手に叱る方法>
叱る回数を減らしても、叱る必要のある状況は生じます。そういう時には、確実に子供を圧倒せねばならない、という事を覚えておいて下さい。
叱らなければならない状況とは、その行動が明らかに良くない行為であり、そんなことは決してやってはいけないと理解させなければならない場合です。子供が間違っていることが、そこまで明らかなのですから、仮に子供が言い返したり、聞き入れない態度をとる場合には、これを完全に潰せなければいけません。子供に反抗を許したり、言い負かされたりしてしまうのは、それが「叱る」という行動をとるのに適切な状況ではなかったという事です。叱ることが適当な状況とは、

(1) 明らかに子供が間違っている
(2) 間違いを指摘するのみならず、迫力を持たせて叱らねばならない理由がある
(3) 自分に叱るだけの正当性がある
(4) 自分は子供を圧伏できる

という場合です。勉強しろと叱って、うっせーと言い返されたら、よく考えてみましょう。自分に勉強しろと言えるだけの正当性はあるのか。そもそも自分はいま勉強しているか、学生時代に勉強していたか。そして自分は子供を説得できるだけの説得力があるのか、あるいは圧伏できるだけの迫力があるのか。
(1)の「子供が間違っているかどうか」が怪しい場合は、まず子供に詳しく事情を訊ね、疑問を感じたら子供に問いかけ、よく話し合います。話し合いがうまく行けば、子供は自ら自分の非を悟るでしょう。あるいは、子供は間違った行為をしていなかったという結論に達するかも知れません。
(2)は子供の物わかりの良さによります。言い聞かせて分かる子であれば、大きな声を出す必要はないのです。この条件を考慮すると、一定以上の年齢の、きちんと相手の話を聞ける子には、叱ることは不適切で、諭すことが有効、という結論になります。この私の理論に従うと、叱る必要性はかなり少なくなるはずです。叱る必要がそもそもあるのか? というのも、ひとつの問題です。この問題に、私はまだ結論を出せずにいます。
(3)が怪しい場合は、子供と同じ目線に立って、共にその問題を考えます。こういう時に使える論法というのはいくつかあって、「私も人のことは言えないのだが、自分のことは置いておくとして、君が私と同じ悪い方向に行ってしまうのは、止めたいと思う。私にとって君は大事な存在なのだから」「私も君も、こういう問題を抱えていると思う。私はこれを直そうと思うから、君も一緒に努力しないか」といった言い方は便利な言い方であると言えます。(前者はきちんと相手への愛情を示さないと説得力が出ません。後者は自分が挫折したら相手も挫折すると考えて間違いないでしょう。使う際は、よくご注意を)

(1)~(3)が満たされているのに(4)が怪しいのは、普段の自分の在り方に問題があります。「普段からギャアギャア言う割に大したことはない」とナメられているのです。もっと大人としての落ち着きを身に付けましょう。「何が本当に大切なことで、何が妥協可能か」という問題について考えてみてください。小さな事でバタバタしなくて済むようになります。
なお、静かにしなさいと言っても静かにしない子は、叱ってもあまり効果がありません。うるさくする子は興奮しているから騒ぐので、興奮を静める対処が必要です。叱りとばすとますます興奮する恐れがあります。また子供は親しい人の行動をコピーするので、親御さんが日常的に大きな声を出していると、子供の声のボリュームも大きくなる、という事情もあります。つまり、まずは親御さんがお茶でも飲んでリラックスすることでしょう。周囲を幸せにするためには、自分も幸せでなければなりません。

<上手に誉めるための心>
ようやく誉める方法ですが、実は、ただ誉めるだけなら簡単です。良くできたね、エライね、を連発すればよろしい。
しかし、これはあまり上手なほめ方ではありません。ただ誉めまくっていても、説得力に欠けるからです。では、どうやって誉めるのが説得力があるか。
私の考えでは、普段から人間をよく観察し、よく考えておくことが有効だと思います。人間一般を見て、あの人はこんな所が良い、あの人はここが良い、と普段から人間の良いところを探す練習をします。すると、どんな状況でもさっと相手の良いところを見つけられるようになります。人間の能力を細かく分析してみることが有効です。全体として出来が悪いとしても、細かい部分部分に注目すると、良いところもあるものです。人間を観察し研究する心。これが重要です。
あるいは、相手の悪いところから逆算して良いところを見つける、という方法もあります。例えば手際が悪い人というのは、だいたいが丁寧な人です。手際が悪い人を誉めたいと思ったら、その人の丁寧さが発揮された事例を探して、あれは良かったね、と言ってあげます。人間の性質とは、その多くが良くも悪くもはたらく諸刃の剣です。ある人の悪い部分とは、そのまま良い部分でもある事が多いのです。これは「心」というよりはテクニック的ですね。しかし、私が人間を観察研究する中で見つけたテクニックであり、観察研究する心があれば、こんなハウツーはいくらでも見つかります。
テクニックじみたものをもう一つ挙げると、誉めるときに貶し言葉をまぜる、という方法があります。「君は頑張るね。まぁ、頑張り過ぎも困りものだが……」とやるのです。これはうまく話を持っていかないと、誉めたのではなく貶したことになってしまう恐れがありますが、本音を言っている、厳しいことも言っている、という事が相手に伝わるので、甘やかしや気休めではないのだ、と相手に伝わるので、成功すれば説得力倍増です。(ただし、もともと甘やかしや気休めであった言葉に、貶し言葉を混ぜても、敏感な相手には気付かれてしまいますから要注意)話の最後は「それにしてもこれは素晴らしかったね」と褒め言葉で締めくくるか、「今度はこれも改善すれば、もっと良くなるね」と未来志向に持っていくか、相手の疲労度も考慮して、うまくまとめましょう。
テクニックをもう一つ。相手がどこを頑張ったのか、その力配分をよく見ましょう。努力した場所を認められると、人間はとても喜ぶ物です。

総じて、本当に相手のことを考え、相手の状況を観察し、人間の心の動きについての的確な知識を応用すれば、誉めるも叱るも自在です。どうしても自分の気持ちが相手に伝わらないなら、言葉ではなく行動で示しましょう。私はある時、教え子に「君は必ず好成績を取れる」と言っても、教え子に「そんなのわからないじゃないですか」「じゃ、どうして今自分は成績が悪いの」と反論されてしまったことがあります。事細かにその子の能力を分析して見せても、納得してくれません。そういう場合は、「君が信じなくても私は信じている」と宣言し、飽くまでそれを前提に話をすることを止めません。そうしていれば、終いには、ちょっとは信じても良いかな、という気分になったりするものです。