昨日電車に乗ったら、女子高生らしき二人組が目の前で話しています。

「ときどき思うんだよね。何のために勉強してるんだろうって」「だよねだよねー。思うよね。大学入るためかなあ」「将来は、働くんだよねぇ?」「働かなきゃだよね。そうだよね」「それか、結婚するか……」

甘い! 甘い甘い甘い!

彼女たちは「女性には働くか専業主婦になるか、二つの道がある」と考えていたようですが、「男性が一家を養うだけの収入を稼ぎ出し、女性が家事をすべて切り盛りする」というシステムはこれから崩れていきます。男性に一家を養うだけの給与を与えるためには、いわゆる「日本の戦うサラリーマン」らしく、自分の時間も家族との時間も捨てて、地域社会との接点も失って、日本の政治や国際社会について考える暇も無く、馬車馬のごとく働かねばならんわけです。それくらい働いてくれないと、企業としては年間600万も1000万もやるわけにはいかない。しかし、女子高生諸君、キミタチがこれから恋するであろう、女の子の気持ちに細やかに気を使い、優しく話を聞き、育児となれば男もがんばらなきゃぁ、とハリきって「たまごクラブひよこクラブ」を買ってきちゃったりするような男には、そんな働き方をする根性はないのですよ。大企業に就職したは良いが、鬱病になっていきなり会社辞めちゃったりするんです。それも半年で。それで、諸君、いったい誰の収入で専業主婦するつもりですか。

まぁそれでなくとも、いきなり浮気してとんずらこいたりする危険もあるからさ。自分でもしっかり稼いでおきなさいよ。どういう統計か確認してませんけど、結婚したカップルの3件に1件は離婚すると言われている時代なわけです。結婚すりゃ稼がなくていいというのは、時代錯誤になりつつあるんです。

あららん、と思ってからでは遅いですから。
自分の生活費くらいは自分で稼ぎましょう。
猪口少子化相らによる「食育推進基本計画検討会」が20日、「食育推進基本計画」の最終案を取り纏めたと新聞で読みました。朝食抜き児童や肥満児童を減らすことを目指し、2010年度までに全都道府県と半数以上の市町村に独自の食育対策を求めるとのこと。また、不勉強にして知らなかったのですが、昨2005年7月には「食育基本法」という法律が施行され、国や自治体の取り組みを定めているとのこと。
とても良いことだと思います。

私は、どんな生徒が私の元にやってきても、その子のために何らかの貢献できるはずだと信じています。というか、自分に何か出来ることがあるはずだという前提で、何ができるか考えることを自分に課しています。最初から「この子は駄目だ」と諦めることは、教育者には許されない、という考えです。
そういう意味では、どんな子が私の元にやってきても構わない。成績不審者でも、ひらがなが書けない中学生でも、グレていても、心を病んでいても、その子に対して自分がしてあげられる事をするまでのこと。食習慣が致命的に悪い子がやって来たら、その子がどうすれば基本的な食習慣を身に付けられるか考えます。日本という国に食育のなっていない子がいくら増えようが、私のやることは本質的には変わりません。

とはいえ、やはり制度的な対応をきちんとしていくことは、良いことだと思います。私が行うのは主に学習指導ですが、運動、食事、就寝といった基本的な身体条件が整っていた方が、やはり脳の働きも良いし、勉強への態度も、指導内容の飲み込みも良い。良いに越したことはないので、そういう身体的条件を整える仕事をしてくれる人がいるのは助かります。
私の元にやってくる未来の生徒たちが、私の元にくる前に、しっかり身体的・精神的基盤を整えてきて、私の元で大きく伸びてくれるようだと良いなぁ、と思っています。
滋賀県長浜市で2人の幼稚園児が、別の園児の母親に刺殺されるという痛ましい事件が発生しました。二人の園児の事を考えると本当に痛ましいし、残された御遺族の皆さん、とくに御両親は、どんなに悲しいか、想像もつきません。愛する人を奪われるのは、辛いことです。それ以外に言いようがありません。お二人のご冥福を心からお祈りしたく思います。
さて、しかしこの事件は痛ましさを嘆くだけでは済まされない、冷静に考えておくべき事があるようです。ちょっと考えてみましょう。

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事実を詮索するのはやめておきましょう。何が原因か、誰が悪いのか等、すでに各種メディアで騒がれていますが、ひとつだけ「事実は切り取り方ひとつで見え方が随分変わる。メディアで報道されている内容を鵜呑みにしない方がいい」という事だけ、確認しておきましょう。

本記事で考えたいのは、事件そのものの事実関係ではなく、この事件が産む影響の方です。二つ懸念しているのですが、ひとつはこの事件がナショナリズムと結びつくこと。被害に遭った子供たちと同年代の子供を持つ親の世代に、なんとなく「外国人」を気味悪く感じるような感覚が広まり、他にも数多くいるはずの海外出身者家族が、いわれのない差別に直面するのではと心配です。

もうひとつは、子供を地域と親たちで守っていこう、という枠組みに亀裂が入る可能性です。最近幼児を狙った犯罪がセンセーショナルに報道される機会が増え、日本中で子供を守るための取り組みが拡がっています。が、それらは基本的に、子供の安全を脅かす仮想敵として、「独身男性」をターゲットにしていたのではないかと思います。もっとハッキリ言えば、ロリコンのオタク男、という事ですが。それに対する「味方」は子供の親たち、および地域の中高年者です。親を中心に、商店街のメンバーや老人会のメンバーが通学路を見回ることで、子供を守ろう、というのが多くの地域に共通する発想だと思います。
が、そうすると今回の事件は、味方だと思っていた人間の中に敵がいた、ということになります。園児たちを幼稚園に送り届けるはずの親が子供を殺した。現在はむしろ「中国人」という方がクローズアップされているような印象を受けますが、「園児の親」という方がクローズアップされれば、このところ各地で形成されつつあった地域社会の取り組みが、相互の不信感によって解体される危険を孕んでいると言えるのではないか、と危惧しています。

あるいは、「今まで信頼してきた親同士ですら信頼できない」という事実と向き合うことが苦しいので、敢えて「中国人だ」という点にアクセントを置いて、「親だった」という点を忘れようとする大衆心理がある可能性もありますね。あるいは、最近の報道では容疑者が被害妄想に駆られていた、というイメージの報道が増えていますから、「中国人」ではなく「心を病んだ人」の方に重点が置かれ、精神障害者バッシングに繋がる可能性もあるかも知れません。いずれにせよ、その後の社会的影響を注視していく必要のある事件だと思います。
はーい。「中高生へのメッセージ」ですよ。今日のテーマは「勉強はそこそこ出来るけど、勉強が面白いとは思えない。これは勉強が足りないからでしょうか。それとも……?」というもの。こういう悩みの持ち主というのは、比較的少数派なんじゃないかと思うんですけどね。それとも、結構いるのかな?

<大前提として>
大前提として、「勉強は面白いと思えないとのことですが、では貴方は勉強以外の何が面白いと思っていますか?」という質問をさせていただく必要がありますね。そこで「うーん、面白いと感じられるものがあまりありません」と答えるようなら、それは「勉強が面白くない」というのが問題なんじゃなくて、「何事も面白いと感じられない」こっちが問題ですよね。

何事も面白いと感じられないのは、感性が眠っているからだと考えられます。だから、先にそいつを叩き起こしておきましょう。感性の叩き起こし方ですが、人間を叩き起こすのと基本的には同じです。強い刺激を叩きつけてやればよろしい。刺激の強いもの、というのはいろいろあります。ただ、耳が聞こえない人に音が鳴る目覚まし時計を与えても無意味なように、その人がちゃんと反応する刺激を与えないと意味がない。まぁ刺激の例としては、本、テレビ、映画、人間との接触などがあります。本は難しい本である必要はない。読んで楽しいと感じるものであれば結構です。マンガでも宜しい。優れたマンガも存在します。ただし内容がシリアスな、気合の入ったもの限定です。一概には言えないとはいえ、ギャグマンガは総じて、感性を叩き起こす役には立ちませんね。テレビはNHKのドキュメンタリー等をお勧めします。昔は真面目で難しいものばかりでしたが、最近は硬軟いろいろあります。もしお金をかけても良いなら、往年の名作「映像の世紀」「世紀を越えて」などのDVDを購入するのもありです。映画は、ちょっと芸術的センス・文学的センスのある人向け。ハリウッドアクションは避けて。いわゆる名画と呼ばれるものがお勧めです。人間との接触は、実際にチャンスがあるかどうかという問題があるので、接触しましょうそうしましょう、というわけには行きませんが、「ボランティア活動に参加する」なんてのは一つの方法です。刺激の強度としては、やはり実際に人間と触れ合うのが刺激の強さでは最強ですが、実体験は漫然としていて、整理されるのに時間がかかります。その点、本は概して刺激強度は弱い傾向がありますが、他人の整理された考えに触れることは、論理性をも同時に鍛えてくれて、経験を整理するのを助けてくれる働きがあります。バランス良く摂取するのが良いでしょう。人間の悲喜劇、美しいものや醜いものをたくさん見てください。良いものに感動し、悪いものを憎むセンスが身につきます。

<しかし勉強はピンとこない。はて?>
では、「それなりに面白いと感じることはあります。感性が死んでいるわけではありません。でも勉強はピンときません」という方について。この場合、勉強に対する態度を疑ってみましょう。数学に関しては、これが効く場合があります。
貴方は勉強を「真面目に」やっていませんか? 真面目に、堅苦しく勉強に臨んでいたら、面白くないに決まっています。中には真面目に真面目に勉強しているうちに、ムラムラと快感が沸き上がってくる、とかいう凄い人もいるかも知れませんが、それはごく一部の「選ばれし者達」の話。普通の人は、真面目にやっていたら、肩が凝るだけです。
自分は勉強を真面目にやっている、という自覚のある人は、もっとわんぱくに、いたずらっぽく、あるいは粋がって、ひけらかして、茶目っ気をもって、勉強に取り組んでみてください。例えば、勉強しながら頭の中で(へっ、こんな問題を俺様にやらせるんじゃないよ!)(ザコはどいてろ! オラオラ!)とか、啖呵を切りながらやってみる。それ変な人だよ、なんて言っていては駄目です。勉強が面白いだなんて、ちょっと変な人に決まっているではありませんか。「勉強を楽しめるようになりたい、でも変な人にはなりたくない」だなんて、無理な相談です。外にも、問題を解きながら(お! こんなところに簡単な解き方発見。俺ってアタマいい~!)とか、自画自賛するのも良い。とにかくテンションを上げてください。一人で打ち上がってよろし。ノリノリに問題を解きまくっていれば、成績もますます上がるし、なんか楽しめます。なんかワカンナイけど楽しくなります。馬鹿っぽいけど、ちょっと馬鹿な方が楽しいです。あとは、テスト時以外なら「解けた問題の別の解法・別の出題例を考える」なんてのも良いでしょう。より素早くできる解法、より一般的に使える解法を編み出したり、より難解な問題設定にも対応できることを確かめたりする事は、「ワーヲ自分かしこいじゃん!」と、妙な自己陶酔に導いてくれます。

「なにそれ、自分に酔っててキモチワルイ」とか思う方も、いらっしゃるかもしれない。しかし格好悪いとか気持ち悪いとか言ってたら、「面白い」なんて感覚はもてませんよ。ワーッと没頭してこそ「面白い」と思える。自分を冷静に見ながら、かつその世界を楽しむなどという境地は、あと二十年くらいしてから達すればよろし。今は走りなさい。ゆっくり歩くのは、走る体力が無くなってからでも遅くはない。

<そんなイイカゲンな方法しか無いんですか>
いやいや、ありますぞ。ほかの方法。今度は主に理科社会に効く方法です。「より広く深く勉強し、知識を関連させ、全体を把握する」という方法です。
例えば社会。日本の山脈の位置と名前とか、覚えるのはいいけれど、萎えますよね。その山の名前が何の役に立つのか、と。しかし、関東平野など平野部の都会に住んでいると分からないと思いますが、山脈というのは結構、交通の妨げになるわけです。越えようったって急峻だし、トンネルをブチ通すのも金がかかる。そこで道路や鉄道というのは、概して山脈を避けて通ることになる。すると町は山脈沿いにできた道路に沿って展開される。すると人の流れは交通事情に制約されるから、まあ日常的に利用できる範囲内の交通路上に、日常の最低限度の商業施設ができる。そこの人の暮らしが、利用可能な商業施設に、ひいてはその地域の交通事情に、さらにはその地域の地理、山脈や川に、影響を受ける。あるいは、企業の事業展開が山脈や川に影響を受ける。よくよく調べてみると、けっこう生活と関連するわけです。あるいは、東京の大きな公園は大体が旧日本軍の施設跡だ、とか、県内の交通機関を見ると当該地域の文化的断絶、ひいてはかつての藩の支配領域が透けて見える、とか、いろいろ調べると「へぇ~」と思うことがある。これは歴史や理科でも同じことで、学校で習う範囲だとピンとこない内容が、より詳しく調べて見ると「なに! そうだったのか!」と思うことがある。この「!」がポイントなんですね。「!」が興奮を生む。勉強が進む。
この方法を実践するためには、新書サイズの本を多読するのが有効です。NHKブックスにも良書が揃っています。「それなりに勉強はできる」という貴方の脳は、きっと刺激を求めているはず。腹ぺこ脳みそは知識をほしがっているはず。いっぱい食べさせてあげましょう。元気が出ます。ただし「本の虫」にならないよう、気をつけて。

以上、勉強が楽しくなるかもしれない、あの手この手でした。まぁ勉強なんか楽しまなくて良し、という考え方もあるから、気楽に考えておくのが良いんじゃないでしょうか。重く考えると、余計に楽しめなくなりますから。
皆さんが楽しんで勉強できますように。
中高生へのメッセージったって、いろんな中高生がいますからな。
全員にむけて、というワケには参りません。
今日のターゲットは、表題のとおり。

 「不満があるわけじゃない。
   でも夢や希望があるわけでもない。
    要するに、何もない」

そういう人、けっこういるんじゃないかと思いましてね。例えば学校の成績はそこそこ取れている。まあ成績だけではなく、学校では大過なくやっている。家でも特に、問題はない。だが、そうやって時を過ごし、年を重ねて、一体どうなるというのか。何にもならない気がする。大学を受験して、まぁ浪人くらいするかも知れないが、とにかく合格する。キャンパスライフをそこそこ楽しんだら、どこかの企業に就職する。サラリーマンになる。はて、それで良いのか……? と、そんな疑問というか、不安というか、そんなものを抱えている人。今日は、こういう人へのメッセージです。

私が思うに、ですね。世の中、ちょっとした思い違いが流行っているのじゃないかと思うのです。どんな思い違いかというと、「人間に生まれたからにゃ、夢や目標を持ち、意志的・意識的に努力することで、それを実現せにゃならぬ」みたいな思い込みです。これが、ちょっと違うんじゃないかと思う。人間、いつも明確な夢や目標に基づいて行動するわけではないし、何でもかんでも意志的・意識的に選択するわけでもない。「なんとなく」や「周囲がそうしていたから」で決めることも多い。そういうもんだろう、と思うのです。
たとえば、皆さんはだいたい弁当は箸で食べているでしょう。さて、皆さんは「日本人として箸で食事するようになりたい」という夢を持ち、意識的に努力して箸を使うようになったのでしょうか。たぶん違いますよね。御両親が箸を使わせたから、家や幼稚園で教え込まれたから、箸で食事するようになったのでしょう。それでも行儀が良いに越したことはないというので、「箸の持ち方がおかしい」だの、「箸で突き刺して食べるのはよせ」だのと言われ、あるいは「落としたら恥ずかしい」「魚もきれいに食べられるようにしたい」と気を遣ったりする。
同じように、諸君は別に中学生・高校生であることを意識的に選んだわけじゃないでしょう。難しい大学を受験することも、企業に就職してサラリーマンになることも、特に夢や目標だというわけではないかも知れない。でも、そんなもんかも知れませんよ。人生てのは。それでも、その「なんとなく」や「周囲がそうしていたから」で決めた人生でも、うまく行くに越したことはないから、周囲はああした方が良いとか、もっとこうしろとか言うし、諸君自身もどうしたら良いかなと悩む。悩んで、工夫して、いつの間にか前進していて、いつの間にか誰かがついてくる。いつの間にか誰かと共に歩んでいる。いつの間にか、その手に掴んだものがある。何かを得ている。それでいいのかも知れません。夢や目標がない、なんとなく選択をしている、こんなんで良いのか、と悩むヒマがあったら、「なんとなく」で選んだ人生でも良いから、その人生をしっかり生きる。そのほうが、良いのかも知れない。
この私の考えに興味がある人は、養老孟司という人の『唯脳論』という本を読んでみるといいかも知れません。養老さんは『バカの壁』とかを書いた人で、賛否両論ある人ですが、この『唯脳論』はけっこう真面目に書かれていて、「夢だの目標だの、意志だの意識だの、そんなもん怪しいもんですよ」といった話を展開しています。

もっとも、私自身は、かなり「夢だの目標だの、意志だの意識だの」で人生を展開していますけどね(笑)
私はいろいろと、納得できないことや不満なことが多かったので、そいつを何とかしてやろうと、高校生くらいからガツガツやってきました。今は、教育こそは社会の根幹だ、最終的に教育の質を決めるのは現場の教師に他ならない、だから自分は教育の現場に立つのだ、という思いで教育者を目指しています。
人間というのはお互いに喜ばせたり悲しませたり、傷つけたり癒したりしながら生きているわけですが、うっかりすると、ずーっと相手を傷つけ続けたり、悲しませ続けたり、そうやって相手の心を歪めてしまったりする人がいる。具体的には、家庭内暴力とか子供の虐待とかですね。人間というのはうっかりするとそういう風になってしまうものだから、そうならない人を育てたい。できれば周囲のそういう人、そういう被害にあった人を、治癒できる人を育てたい。これは、ちょっと高望みだけれど。まあ、自分にできる事をするまでです。(あ、このへんは「なんとなく主義」っぽいですね)

さて、皆さんは、どんな人生を生きるのでしょう?
どなたでも気付くことかも知れませんが、今日ふと思いついたことがありますので、ちょっとメモ程度に書いておきます。

進学校や塾など教育機関、あるいは個人でも家庭教師などが「合格実績」なるものを発表することがあります。それを見て学校・塾・家庭教師の指導能力を測ったりするわけですが、これ、ちと問題ありです。第一に、進学実績は多くの場合、「○○大学○名」などと実数で表示してあります。しかし、これだと生徒数が増えれば、そのぶん合格実績の数字も膨れあがります。実数ではなく、「全生徒のうち何パーセント」で表示しないと、生徒数の多い学校・少ない学校で進学実績を比較できません。これは家庭教師の場合は特に深刻で、100人の生徒を教えた教師と10人しか教えていない教師では、実数で比較しても仕方がない。
もっとも、この問題は実数を確認すれば済むことです。より問題なのは、「合格実績の数字は本当に指導能力を示すのか」という問題でしょう。もとから優秀な生徒を集めてきて教えれば、指導力が無くても合格実績は出ます。これは特に学校間の比較で問題になることで、中学受験の段階で高い偏差値を要求する学校が大学進学実績も優れているのは当然だ、という話になります。むしろ指導力は、その教育機関、ないしは教育者と出会う前と、卒業した後とで、成績がどれだけ変化したかです。名もない大学に入ったとしても、それが分数の計算もろくに出来ないところから出発しての合格であれば、高い指導力の賜物、素晴らしい成果かも知れません。

中高一貫の進学校に関して言えば、その学校の進学実績が、主に中学入試で入った学生によるものか、それとも高校から三年間だけ通った学生によるものかを調べると判然とするでしょう。(高校で学生を取っていない場合は、調べようがありませんが)高入生の方が中入生より出来るような学校は、中学三年間、大した指導をしていない学校です。その点、私の出身校である往時の江戸川取手は、一応学年主席は中入生が取っていました。きちんと指導をしている証拠だと言えるでしょう。(もっとも、それからだいぶ時間が経っているので、今ではどうか分かりません)

教育機関を選ぶ際の、ご参考になさって下さい。
皆さん数学は好きですか? そうですか嫌いですか。

五教科の中で最も不人気なのが数学だろうと思います。少し成績のいい子なら、他の教科は良いでしょう。英語は外国の人とコミュニケートするのに役立つし、音楽やファッションについて海外の情報を得るのにも使えます。国語は純粋に本を読む楽しみとつながるし、社会は歴史物語なんかが面白い。理科は物理現象について知る事ができたり、最先端の科学技術について理解する役に立ったり、宇宙について知ったりとエキサイティングです。生物学は医学とも関係して、自分自身の体と健康について知る助けになるかも知れない。それぞれに楽しかったり役に立ったりします。
それと比べて、数学って何だ。マーケットで買い物をするのに微積分は必要ありません。料理に入れる調味料を量るのに三角関数は使いません。この世において肉眼で見えるものを相手にしていれば、虚数なんてものにお目にかかることはまず有り得ません。三角形の内角の和が200度だと信じていても、車の運転はできます。何の役にも立ちません。端的に苦痛です。
さて学生の諸君。それでも諸君は学校や塾や予備校で数学を教え込まれるわけですが、この事実についてどう考えたらいいと思いますか。苦痛だからできるだけ避けたいですか。でも、そうしていると素敵な点数のついた答案用紙が返ってきたりして、何かと心憂いことが多いでしょう。そこで今日は不肖拙者が諸君に数学を学ぶ心構えを説いて進ぜよう、というわけです。耳かっぽじってよく聞くんだぜ。

諸君。無駄なあがきはよして、現実を受け容れなさい。数学の勉強をするのが無駄で不合理で苦痛だと騒いでみたところで、日本の学習カリキュラムには数学が入っているんですから。その事実を受け容れて、黙って定理を暗記し、計算練習を積み重ね、難問の解法を覚えなさい。安心してよろしい。これは無駄ではない。諸君がこれから生きていく中では、数学だけではなく不合理なことがわんさと諸君に降りかかってきます。意味もなく待たされたり、意味のない書類をつくったり、意味のない数字をパソコンに入力したり、それで意味のない計算結果を意味もなくプリントアウトして他の部署に回した挙げ句、その書類を読みもせずにハンコを押してくれる意味もなくエライ肩書きを持った上司と無意味に一緒に酒を飲んで飲みすぎて吐いちゃったから板前さんのつくってくれた美味しい料理も無意味だったね。そんな日常が諸君を待っているわけです。数学の勉強は、そういう無数の不合理と苦痛に耐える強靱な精神を鍛え上げ、徒労を少しでも賢く素早く処理する技術を磨く役に立ちます。諸君、数学は非常に有意義だから安心して取り組みなさい。問題をいかに素早く少ない労力で処理するか、その際にどのようにすれば精神を麻痺させ苦痛を感じないようにできるか、研究しなさい。雑念を払い精神を統一することです。心頭滅却、数学も上司へのお追従も楽し、です。

さて、しかし学生が百人もいれば、中に何人かは、数学が楽しいという人もいるものです。パズルを解く感覚で数学の問題を解くのだ、とか何とか言っちゃったりして。そうなれればしめた物です。だから、今度はそうなるための方法を諸君に伝授しよう。
先ほど諸君には「悪あがきはやめて、黙って数学の勉強をしろ」と言いました。それがポイントです。諸君、嫌々数学やってるでしょう。ダメですよそれじゃ。皆さん、大きいエビとかカニとか好きですか? エビカニが苦手な人って、指の先で恐る恐るつついたり、箸で突き刺したりして、一向に殻を剥けなくて食事が進みませんよね。数学も同じで、恐る恐るつついていても、一向に解けるようになりゃしないんですよ。やるならがっぷり四つに組め。足をひっつかんで胴体からもぎ取れ。そういう覚悟でがっぷり取り組めば、まあ少しはできるようになってきますよ。そうなると、嫌なものをいかに素早く処理するか、カニをいかに素早く解体するか、マニアックな喜びを感じられるようになってきます。カニの身を食べることはそっちのけで、他人のためにまで殻を剥き始めたら、しめた物です。そんなふうに解かなくても良い数学の問題まで、いかに素早く処理するかを競い始めたら、貴方は数学=パズル派の仲間入りです。エリートコースです。受験で数学が出来ると有利ですよ。センター試験で全教科要求する国立大学とかも視野に入ってくるし、文系で数学が出来ると、難関私大がぽろっと簡単に突破できちゃったりしますから。

さてさて。しかしね、これはまだ数学の奥義ではないのだよ。学生を千人くらい集めると、中には一人くらい「数学は美しいから好き」とかいう化け物がいる。こいつこそは数学の神に選ばれし者だ。こいつが真のエリートだ。ニュータイプだ。スーパーサイヤ人でも良い。
さあ、諸君どうすれば自分もこのスーパーエリートになれると思うか。これが数学の奥義だぜ。よーく聞くんだ。おい、そこ寝るな。
簡単です。たとえば諸君、恋をしたまえ。純愛トゥルーラブストーリーじゃダメだぜ。もっとドロドロしたヤツじゃなきゃ数学の神は振り向いてくれない。三角関係とかいいね。友達を裏切り恋人に裏切られるようなヤツがいい。人間関係とか、社会とかのドロドロ加減、汚さ、狡さ、どうしようもなさ、救いの無さを心の底から感じなさい。辛酸をしゃぶり尽くせ。答えが出ないと苦しめ。そうすると、綺麗に唯一の答えが出る数学が、神々しい美しさを持っているように見えてくるから。そしたら、まあ恋は忘れて、数学に打ち込みなさいな。大丈夫。君の好きだった男はダメ男だったんだよ。お前、世界の半分は女じゃないか。

アイザック・ニュートンは幼い頃に父を亡くし、母は経済的苦しみを解決するために牧師の妾になりました。この牧師は幼いニュートンを嫌い、邪険にしましたから、ニュートンは教会と教会が押し付ける聖書が嫌いになり、神の摂理を直接読み取るために宇宙の原理を探究しました。その成果がニュートン物理学です。彼は、人間関係や社会の汚さを幼い頃から叩き込まれていて、数学・物理学の美しさに神の救いを求めたわけです。私の言うことも、一理と言わず、0.5理くらいはありそうでしょう?

諸君が人生と数学を楽しめるよう祈ります。
「信じるが、期待はしない」これ、子供を伸ばすコツではないかと思ったのですが、いかがでしょうか。
「期待する」とは、具体的に「こうなってほしい」と思うことですね。たとえば「今度のテストで平均点を上回って欲しい」といったことです。ポイントは、達成目標に具体的な期限と内容が設定されていることです。これが子供にとって達成可能なものなら良いけれど、子供の能力を上回る期待は、子供にとってかなり辛いことになります。特に小学校以前の小さい子にとっては、親の期待に応えられなかった、という意識は自己評価を大きく下げます。それに期待してしまうと、はやく達成されないか、次こそはうまく行かないか、と大人の側もだんだん焦ってしまいますからね。冷静に見ることができなくなってしまいそうです。
「信じる」とは、達成目標に具体的な時期や内容を盛り込まない期待の仕方、と思っていただければいいでしょうか。「この子はこの子なりの価値観とペースで、うまいことやっていくだろう」といった考えで、おおらかに見守ることです。「期待しない」といっても、放り出すのではない。期待しないけど、信じることはするのです。
これだけで全てが解決される、というものではありませんが。でも自信に乏しい子、あるいは他人の評価を気にして結果を隠そうとするタイプの子、隠しごとやウソが多いタイプの子には、効く気がします。
ズバリ、教育って何だ?

受験が勉強ではない、というのは、もう間違いなく言えることだと思います。テストの点が良くて東大に入ってきた人の中に、どうしようもないヤツはいっぱいいる。オウム真理教にだって、スーパーフリーにだって東大生はいた。ホリエモンもですね。汚職を摘発される政治家にも東大OBはいる。受験に強いことは、人間の価値や知恵の深さとはまったく無関係です。それに、小学校受験や幼稚園受験で良い学校に入った子が全員そのまま高学歴になるわけではない。中学受験で大学付属中学に入った子達は、一般入試で大学に合格した学生より明らかに勉学の面で劣る。早い時期に勉強させて子供を良い学校に突っ込むことは、実に子供を伸ばすどころかダメにすることの方が多いようなのです。加えて、やはり小学生に受験勉強をさせるというのは、どうしても酷な気がします。小学生が自発的に「受験する」というのは、多くの場合は事実上不可能です。やはり意志が固まるのは十代も半ばにさしかかってから。それまでは、受験勉強なんかよりもっと大事な、学ぶべき事があるような気がします。
受験を抜きにして、国語算数理科社会、いわゆる学科の勉強が教育でしょうか。これは誰でも一度は疑問に思ったことがあると思いますが、こういう「教育」が子供に与えるもの、たとえば二酸化炭素は酸素や窒素より重いとか、鎌倉幕府は1192年に設立されたとか、二元三次方程式だとか、そんなものを我々は社会人になってから使ったか。使いませんね。しばらく前まで、大企業の採用担当者は「大学の勉強は何を学んでも良い。清少納言を学んでも良い。マルクス経済学を学んでも良い。ただし会社に入ったら全部忘れてもらう。社員としての教育は、会社に入ってから施す」という考えだったと言います。(今では社員教育コストを惜しむ傾向や、英語の必要性増大から、TOEICの点などを要求する企業も増えているようですが)大学の成績などより、むしろアメフト部で鍛えた根性とかの方が評価される。小学校の教育は良いとしても、高校・大学といった高等教育を、学者になるわけでもない幾多の青少年に突っ込むことは有意義なのか、どうか。全て無駄とは言わないが、これほどの社会的資本を注入するに足るものなのか。
では、心の教育か。しかし、心の教育って、何を教えればいいのでしょう? 前向きで健全な青少年を育てることか。私は前向きで健全な人達が、心を病んで苦しんでいる人達に対し、善意の微笑みを浮かべながら差別したり心ないことを言ったりするのを知っています。深い人間心理への洞察? 人生の真実への眼差し? なにも若々しい心に、そんな薄暗い、鬱病の原因になるようなものを植え付けなくたって良いじゃないですか。そういうものは、偶然の事故で負った心の傷から、少しずつ開花していけばいいものです。心は自然と育つものであって、学科の教育みたいに制度的に計画を立てて育てられるもんじゃないだろう、というのが正直な感想です。また、社会学には「学校とは読み書きや計算を教える場である以前に、時間厳守や集団行動の仕方、反復作業を厭わない精神など、工場労働に必要な性格を人間に植え付けるための場として、産業革命のころに誕生したのだ」という意見すらあります。我々は子供を学校に入れて、豊かな人間性を開花させようとしているのか、それとも工場機械の一部に加工しようとしているのか。私が学童時代に読んだ国語や道徳の教科書が、子供の心の豊かな成長を願って編纂されているのは間違いありませんが、同時に学校で叩き込まれる「整列! 気を付け! 礼! 着席!」が、産業労働者向けであることは間違いないようでもあります。そして自分自身もそれで育った私達は、もはやそれにまったく疑問を抱かないほどに、産業主義に毒されてしまっている……ような気も、しないでもありません。よく分かりませんが。
私の教育の基本は単純です。生き抜くための、幸せを掴むための、そして周囲を幸せにするための、パワーを身に付けて貰うこと。それが自分の教育の目的だと考えています。現在の社会がどうだとか、教育制度、受験制度そのものが間違っているとか、そういうことは関係ない。その間違った社会に迎合するも、その社会に抵抗するも、その社会を改革するも、それは子供一人一人の自由。ただ、それぞれのやり方で、それぞれの主義で、あらゆる状況において、如何なるアクシデントに見舞われても、それを克服して自分と周囲の幸福を守り抜ける力。そういう力を身に付けてほしい。
受験産業を通じて教育に携わるのは、そこが今日の青少年が生きる環境であり、かつそこで私の教え子達が成功することが経済的・政治的な力を得ることにつながるからです。いくら受験の弊害を言い立てたところで、実際に子供たちがその中にいる以上は、その中で如何に善く生きるかを子供たちに教えねばならない。また、そうして自分と周囲の幸福を守り抜ける力を持った人が経済力・政治力を得れば、ハードウェアの整備(スクールカウンセラー制度の拡充、ドメスティックバイオレンス被害者のためのシェルター増設などなど……)も可能になる。
ただし、社会改革家を育てる気はあまりありません。というのは、あまり欲張って「社会全体を良くするんだ」みたいな理想を抱く人は、かつての左翼革命家達のように、しばしば間違いを犯すからです。もっと具体的に、「自分の周囲の人達に幸せになって欲しい。誰かの幸せを邪魔するようなことはしたくない」といった考え方のほうを信頼します。あくまで直接的な人間関係を通じて、自分の身近な人を幸福にできる力を重視します。
そういう力を身に付けさせる教育をするには、私はまったく力不足ですが……しかし、そういう考えを伝え、子供自身の努力を引き出すことはできるかも知れません。

なお「あらゆる状況において、如何なるアクシデントに見舞われても」という所から、私の教育の「自立主義」が導かれます。誰かがいないと自分の面倒が見られない、という人は、その人を失うと立ち直れなくなってしまうかも知れない。自分一人立ち直れないならまだしも、周囲の人にしがみついて、周囲の人まで苦境に引きずり込んでしまうかも知れない。だから、互いに支え合うのは良いけれど、一人でもやっていける体力は必要だ。そう考えて、自己観察、自己批判、問題発見・分析・対策立案といった能力は重視します。いま一人ではやっていけないという人には、一人でやっていけるようになるまでのケアを用意するなり、うまく人に頼っていけるようなスタイルを模索するなりして、その人に可能な幸せを模索する。とにかく不幸な人が周囲を不幸にする、という悪循環は断ち切りたい。具体的にはドメスティックバイオレンスの世代間連鎖など、ですね。
甘えのある生徒には自立せよと呼びかけてやれば変わるかも知れないし、自立できるだけの体力のない生徒、支えきれない困難を抱えてどうにもならない生徒には、その状況から脱するために必要なケアを与えて、最終的に自立して幸福を実現できるよう道筋をつけてやりたい。自分、および自分の周囲の何人かを幸せにできる、そういう力を持った人間が増えれば、妙な思想だの何だのを鼓吹しなくても、社会は良くなるはずだ。それが私の計画です。

というのは、飽くまで理想論で、実際には難しいですが……
塾の広告には「面倒見主義」なんていう文句が踊っていたりしますが、それで良いのでしょうか。教育の目的が「技能を身に付けさせること」にあるのなら、何でも面倒見て、お膳立てして……というのは良くないのではないかと思います。生徒を頼らせてしまい、自分で自分のために勉強するという意識が育たず、他人任せのヤル気のない勉強になってしまいますし、勉強内容の面でも生徒の柔軟な思考力を縛り付けてしまうでしょう。上位の成績をとる「できる子」というのは、けっして面倒を見てもらったおかげでできるようになるのではないのです。

「生徒の柔軟な思考力を縛り付けてしまう」とはどういうことか、もう少し詳しく考えてみましょう。これは特に数学、算数において見られる傾向なのですが、子供の中に、奇妙な間違い方をする子がいるのです。たとえば小学生が「45個のあめ玉を兄弟で分けます。兄と弟の個数の比が4:5になるように分けると、弟は何個のあめ玉をもらうことになりますか?」という問いを解く場合。以下のような解答を書く子がいます。

 4 + 5 = 9
 45 x 9 = 405
 405 / 5 = 81
 答え:81個

あるいは、こんな答えもあります。

 45 / 5 = 9
 9 x 4 = 36
 答え:36個

正解は25個で、二人とも間違いです。では、この子達はなぜ間違えたのでしょうか。ヒントは模範解答として与えられる、以下の式です。

 4 + 5 = 9
 45 / 9 = 5
 5 x 5 = 25
 答え:25個

さっきの二人は、実はこの模範解答を必死に暗記しようとした子達なのです。一人目の子は「比の数字を足し合わせる」というのは覚えていましたが、その結果出た「9」という数字であめ玉の個数を、どうするんだっけ、かけ算かな? と思いだし間違えて、失敗してしまったのです。後者の子は「先に割って、あとでかけ算」という点は覚えていましたが、その前に「比の数字を足し合わせる」のを忘れて、そのへんにあった数字を適当に当てはめてしまいました。
こんな小学生の様子を見ると「この子はどうしてこんなに簡単な問題ができないのだろう、考えれば分かりそうなものなのに」と思うかも知れませんが、何のことはない。この子達は「この世のどこかに模範解答というものがあり、それを正確になぞるのが勉強だ」という思い込みを植え付けられてしまっているのです。どこかで一度こうなってしまうと、その後の勉強はすべて「模範解答の暗記」になってしまいます。ひとつひとつの出題形式について解法を暗記していたら、小学校の算数だけでも数え切れないほどのバリエーションがありますから、小学生の頭は簡単にパンクします。あの問題とこの問題の解法を混同し、何度も何度も間違い、それによって自信を失い、ますます「自分の考えは間違っており、この世のどこかに正しい解答はある。自分はそれを暗記し、正確になぞらねばならない」と信じ込みます。悪循環で、算数のできない、ついでに自信もない、マニュアル思考人間、いっちょうあがり、です。

中学高校と進めば、あるいは成績上位の方に目をやれば、ここまでひどい例は少なくなります。しかし、ある賢い方法を実行すれば勉強ができる、と信じているタイプの子は、案外好成績の子の中にもいます。たとえば以前、病弱で高校を中退したが大検を取って東京大学を受験し、一回落ちた。今年は合格を勝ち取りたい、という浪人生の相談を受けたことがありましたが、この子は英語の読解法などに関して参考書の進める方法をそのまま実行しており、山のような参考書が書棚をひとつ埋めていました。そのくせ、ひとつの問題集を最後までやり遂げたこともない。優れたマニュアルを探すことには熱心だけれど、自分の選んだ道を最後まで信じて走りきる、ということができないのです。しかし、このような「正確にマニュアルをなぞる」タイプの思考法では、予想外の出題や曖昧な設問に対応できない。そして、東大文系の問題というのは極めて曖昧な出題の仕方をするのです。必要なのは知識ではなく、問題文から何を答えるべきかを読み取る「センス」です。センスは理屈ではなかなか育たない。自分で感覚を全開にして設問を読み、出題者の意図を感じ取らねばならないのです。

先日、観世流宗家・観世清和氏のお話をうかがう機会に恵まれました。観世流というのは、能楽の最大流派です。この観世清和氏の仰るところでは、大人に対する能の稽古は、決して手取り足取りはやらないと言います。ただ、弟子の舞い方が下手な部分があると「おい見とけ」と言って師匠が舞ってみせる。そして弟子に一言「分かったな?」と言うそうです。一見非合理的にも見える。しかし、そこで弟子は必死に己の技術を磨くガッツと、理屈ではなく自分で必死に研究した結果としての技術を体得することができるのだと言います。これには耳を傾けるに足るものがあるように思います。清和氏は、お父上からこの「分かったな?」式教育を施され、どうしても分からないところはこっそりお父上の書斎に忍び込んで、分からないようにお父上の舞を収めたビデオテープを盗み出し、稽古せねばならない部分を必死で繰り返し見て、衣服のちょっとした歪み方からようやく父と自分の体使いの違いに気付いたと言います。果たして自分の教え子が、この観世氏と同じだけの努力をして私の数学解答法を盗んでいるかどうか。とてもそこまでの気迫・気概はないでしょう。つまり多くの子達は、面倒見よろしく何でも与えてもらうことに慣れ、「勉強しよう!」という進取の精神がまったく欠落してしまっているのです。

教育は第一に本人の自覚を求めることでなければならない、と思う次第です。

※もっとも、これは本人が精神的に自立し、自分で勉強に取り組めることが前提なので、精神面に問題がある子には、この方法がすぐに通用するとは限りません。